日頃外国人をガイドしていると”FUKUSHIMA”について尋ねられることがあります。
しかし、日本人でも福島県の浜通り(沿岸部)に足を運ばれている方は少ないのが実情です。
また、現地に訪れたとしても人の捉え方は様々です。
この度、ガイドとして活躍される方々に福島に足を運んでいただき、現地の様子をレポートいただきました。
複数の方の目線を知ることで、多面的に「FUKUSHIMAの今」を感じていただければと思います。
シリーズ第14回目の更新です。
(シリーズはこちらから)
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筆者紹介:
若松俊介
仙台市出身。主に東北地方で通訳ガイドとして活動。祖父母がいわき市に住んでいたため、幼少時には福島をよく訪れていた。震災後はガイドとして内陸部を訪れただけだったため、沿岸部の現在を知りたいと思いツアーに参加した。
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これまで通訳ガイドとして岩手や宮城の被災地には行っていたものの、福島県沿岸部は震災後訪れたことがなかった。福島の現在を知りたいと思い、今回の研修ツアーに参加した。
東京駅からバスで北上して福島県に入る。まず廃炉資料館や中間貯蔵情報センターといった東京電力関連施設を巡り、除染計画の概要を知る。途中バスの車窓から見えた帰還困難区域では、重機による除染作業が今も続けられていた。土壌を詰め込んだフレコンバックがあちこちに積まれているのが見える。
福島第一原発から南に8kmほどのところにある富岡町は、2017年4月に避難指示が解除された。しかし人の気配の感じられない建物が多く、まだ活気が戻ってきているとは言い難い。
避難指示解除と同時期にオープンしたというショッピングセンターは昼食を求める客で賑わっていたが、多くは除染作業関係者のように見えた。
町内の夜の森地区には、春には観光客で賑わう桜並木がある。しかし並木道の途中にはゲートがあり、そこから先は立ち入り禁止だ。ゲートの中と外の様子にそれほど大きな違いは見られないが、放射線という目に見えないもので町が分断されている現実を感じさせる。
福島第一原発の北に位置する浪江町には、ツアー2日目に訪れた。沿岸部の請戸地区には旧請戸小学校があり、震災当日は高さ15メートルの津波に襲われた。校舎の時計は、津波到達時刻である午後3時38分で止まったままだ。
震災後は放射線被害に多くの注目が集まる福島だが、ここは津波そのものによる被害も大きかったことを示している。児童・教職員は迅速な避難により無事だったという。校舎は震災遺構として保存が予定されている。
町の中心部となる浪江駅周辺は、比較的内陸にあり津波の被害を受けることはなかった。しかし、第一原発から10kmという距離にあるために3月12日には避難指示が発令された。駅周辺含む一部地域では2017年に避難指示が解除されたが、町に人通りは少ない。
富岡町もそうだったが、町の民家や商店といった建物自体は残っている。しかし、帰還困難区域に指定されたために戻れないという状態が約6年に渡って続いた。ここは、私がこれまでガイドとして訪れてきた宮城や岩手の被災地と異なる点である。
例えば三陸海岸のいくつかの町では、津波によって建物群が一瞬で破壊された。震災後そういった沿岸部は災害危険区域に指定されたから、戻って再び住宅を建てることはできない。たとえ困難であっても、新たな場所で新たな生活を始めるしかない。
一方、富岡町や浪江町では建物や町並みは残っている。にもかかわらず、戻ってはいけないという。避難指示が解除されたら戻れるかもしれないから、避難先に完全に定着する決心もつけづらい。そういった状態に長い間置かれていた住人の方達は、歯がゆい思いをしたことだろう。放射線という目に見えないものが原因だからなおさらである。
しかし、今回のツアーでは復興への足取りも確かに感じられた。富岡町の夜の森地区では、桜並木周辺の避難指示が2020年3月に解除される予定だという。町が以前のように花見客で賑わう日も遠くないのかもしれない。
同じく3月に、JR常磐線の富岡駅~浪江駅間も開通する。これによって、東京駅〜仙台駅間が特急列車で結ばれることになる。
岩手・宮城・福島の被災3県での鉄道で不通になっていた最後の区間である。これでまた復興に1つの区切が付き、新たな段階へと進めると言っていいだろう。
同じ東北の人間ということで震災のことをわかったつもりでいたが、実際に福島を訪れてみないとわからないことも多くあった。アクセスも容易になるので、これからはより強い関心を持って福島の復興を見守っていきたいと思う。
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