日頃外国人をガイドしていると”FUKUSHIMA”について尋ねられることがあります。
しかし、日本人でも福島県の浜通り(沿岸部)に足を運ばれている方は少ないのが実情です。
また、現地に訪れたとしても人の捉え方は様々です。
この度、ガイドとして活躍される方々に福島に足を運んでいただき、現地の様子をレポートいただきました。
複数の方の目線を知ることで、多面的に「FUKUSHIMAの今」を感じていただければと思います。
シリーズ第11回目の更新です。
(シリーズはこちらから)
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筆者紹介:KG
約25年間、エンジニアとして開発途上国で各種業務に携わった後、老いの見え始めた両親のケアもあり、2019年8月に観光業界に転職しました。将来はネイチャートレイル等、日本の地方部を案内するガイドになりたいと思っています。
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はじめに
2020年1月中旬の2日間、福島第一原子力発電所周辺の沿岸部を訪問する研修ツアーに参加した。日々の忙しさにかまけ、ボランティアや被災地支援活動等に参加してこなかったことから、心のどこかに後ろめたい気持ちを持ちつつ、初めて福島沿岸部を訪れた。
2011年3月に発生した複合的な災害被害(巨大地震・津波による震災と、その直後に発生した福島第一原子力発電所建屋の水素爆発に起因する放射能汚染という人災)から、今も復興の途上にある広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町の一部を訪問して、初めて知ったことが非常に多く、事故から約9年を経た今も続くもどかしい現状に対する己の無知を大いに恥じることとなった。以下に印象深かったことを記載する。
人工物はあれど、それを作り、維持管理・利用する人がいない町
東京丸の内を朝8時に出発し、昼前に到着した富岡町の廃炉資料館(以前は原子力発電所のPR館だったとは皮肉である…)で、地震発生から原子炉建屋の水素爆発事故に至る経緯と廃炉作業の困難さを知った。同資料館横の「さくらモールとみおか」にて昼食の後、北隣りの大熊町にある中間貯蔵工事情報センターに向かった。同センターは福島県沿岸の基幹道路である国道6号線沿いにあるが、現在も放射能汚染が強く残る帰還困難区域内では四輪車両のみ通行が許されている。二輪車の通行はまだ出来ない上、四輪車も事前許可を得ていない限り途中で停車、下車、右・左折することは禁じられている(当然のことだが、国道から曲がる道や道路沿いの家屋・施設の入口にはバリケードが設置され、勝手に入れないようになっている)。
除染された中央貯蔵工事情報センターでは車両から下車が可能 富岡町夜ノ森地区の帰還困難区域にある荒廃した商業施設
帰還困難区域に入った途端、驚くべき光景が私の目に入った。朽ち果てていく家、商店、ビル、看板、ネオンサイン達である。考えてみれば当然のことなのだろう。2011年3月の水素爆発により強い放射能に汚染された地区に関係者以外が立ち入ることは禁止されており、震災翌日に出された避難命令以降、これらの人の営みに使用されてきた人工物は9年余りも放置されてきたのだから。地震そのものの激しい揺れによって破壊された建物や施設の数は非常に少なかったと聞くが、その後9年余り放置されたことによる家屋や建造物、施設・設備の荒廃した様相に、私自身かつてない恐怖感を覚えた。
しかし、なぜそんなに恐ろしく感じたのか、その時はわからなかった。2日目の夕方、丸の内へと戻るバスの中で、記憶の彼方からふと恐怖の出所を思い出した。前日、国道6号線の両側に広がっていた光景は、とある近未来SF映画で見た核戦争後の地上の光景を思い起こさせた(映画では、核弾道ミサイルの発射を知った人々がいち早く地下壕へと逃れることに成功したが、長らく避難した後、人々が地上に出て目にしたのが、廃墟と化したゴーストタウンだった)。
人工物だけが厳然と残り、人が全くいなくなった福島沿岸部帰還困難区域の町並み。映画のスクリーンで見るのと実際その中に足を踏み入れるのは大違いで、私が感じた得体の知れない恐怖の源泉はこれだった。この恐怖感、人によって感じ方は異なると思うが、自分自身で実際に体験しておくことは、原子力発電に依存する現代社会に生きる日本人にとって極めて重要だと思う。最近は気候変動による災害の激甚化なども頻繁に報道されているが、目に見えない放射能汚染が生み出す光景に自身を置くという貴重な体験は、今後我々がどの様な選択をしていくのかに関して、様々な示唆を与えてくれると思う。
なお、東京出発時にガイガーカウンターを手渡され、翌日夜の帰着時に1.5日間の積算被ばく量を測定したところ、0.005mSVだった。この線量は東京-ニューヨーク間を飛行機で往復する際に浴びる平均的な被ばく量0.1mSVの僅か20分の一であり、福島沿岸部訪問が安全であることを付記する。
復興に向けて邁進する人々との出会いと多様な地元産品
人間の営みが長期にわたって途絶えてしまうと、以前と同じ地域社会を回復することは簡単ではない。しかし、訪れた福島沿岸部では、復興に向けて本当に頑張っている人が沢山いる。避難指示解除地域に戻って以前の生活を取り戻すべく努力している住民の方々をはじめ、それをサポートする行政機関職員や商店・商業施設従業員、防災施設建設に従事する人、そして帰還困難区域内での除染活動作業員達も皆復興に向けて日夜努力を重ねている。
富岡町で語り部としてバスに同乗し、各地を案内してくださったNさん、交流施設「ならはCANvas」で楢葉町再生に奔走するならはみらいの県外出身若手職員、希望の牧場で寿命を全うさせるべく牛の飼育を続けるYさん、浪江町で花卉栽培を通じて地元再建を期するAさん等、ツアーでお会いした方は皆本当に強く、たくましく、頼もしい方ばかりだった。当地を訪問しなければ叶わない彼らとの出会いとその経験談は忘れられないものであり、復興に向けてこんなにも多くの人たちが頑張っていることを、日本のみならず、世界中の人に知ってもらいたいと思う。
また、福島沿岸部には美味しいものが沢山ある。魚好きな私は2日間とも昼食に海の幸を頂いたが、新鮮な海産物は関東ではなかなか食べられないものだった。次回福島沿岸部を訪問する際には、極太麺を使ったご当地グルメの一品「なみえ焼そば」や数多い地酒も味わいたいし、秋には近隣の川を遡上するサケの鮭狩りにも参加してみたいと思う。宿泊したJ-villageも素晴らしい施設だった。次の訪問が楽しみである。
楢葉町の天神岬公園から、建設中の防潮堤と防災林、広野火力発電所を望む 浪江町の花き農家が栽培するトルコキキョウはTOKYO2020のビクトリーブーケになる予定 合宿や練習のみならず、観光客が宿泊する施設としても素晴らしい楢葉町のJ-village
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