私が見た福島沿岸部の今 Vol.5

福島の今

日頃外国人をガイドしていると”FUKUSHIMA”について尋ねられることがあります。
しかし、日本人でも福島県の浜通り(沿岸部)に足を運ばれている方は少ないのが実情です。
また、現地に訪れたとしても人の捉え方は様々です。

この度、ガイドとして活躍される方々に福島に足を運んでいただき、現地の様子をレポートいただきました。
複数の方の目線を知ることで、多面的に「FUKUSHIMAの今」を感じていただければと思います。

シリーズ第5回目の更新です。
(シリーズはこちらから)

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筆者紹介:内藤里子(2008年通訳案内士)

35年前、乳飲み子を抱えてエジプトの空港に降り立った時の喧騒、砂ぼこり、コーランの響きわたるあの情景、日本とは真逆の世界を知った衝撃が、今のガイドの仕事に私を導いたと思っています。日本も世界から見たら特異な国。そんな日本を私のフィルターを通して、多くの外国の方に理解してもらうことに情熱を傾けています。

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2011年の東日本大震災で起こった福島の原発事故から8年。
東京オリンピックを前に政府は未曽有の震災からの復興を謳い、
人々の脳裏からもその記憶が徐々に薄らいでいる昨今、
今の福島の現状を知りたいとこのツアーに参加した。

まず、東京駅を出発する際、放射能測定器ガイガーカウンターを身に着け、測定。

0.15μSv/h。(μSv:マイクロシーベルト。世界平均値0.27μSv/h)

原爆の広島と同様、世界の人々の脳裏には、福島イコール原発事故として捉えられている。
それゆえ、放射能を浴びるのではという一抹の不安を、実際の数値を示して、払拭させるということなのだろう。

ツアーでは、第一原発から10キロ~20キロ圏内に入る。
正に、事故後多くの人々が避難を余儀なくされたところ。
ただ、2,3年前から徐々に避難命令解除地域も増え、
汚染された土を詰めた黒いフレコンバックの数も少なくなり、
復興の兆しが表れている所だ。

しかし、現実は厳しい。

2年前解除になった富岡町の目貫通りあったお店の店主によると、
長期間放置した店舗は激しく傷み、近所のお店も取り壊され、周りは空地ばかり。
建っている建物は、原発で働く作業員向けのアパートばかりだという。

この町内には、No-go Zone(帰宅困難地区)がまだあり、
帰還できる場所とバリケードを挟んで隣同士に並んでいる。
いくら帰還できるようになったとしても、No-go Zoneの隣に住む決心は難しい。

さらに衝撃的なのは、未だに放射線量の高いNo-Go Zone(帰宅困難)の大熊町に入ると景色は一変する。

かつての農地はカヤが伸び放題、脇道への入り口はバリケードで閉ざされ、二輪車や歩行、下車も許されない。
正にGhost Townだ。

沿道の線量標記も、2.00μSv/h。車内のカウンターの数値がどんどん上がっていくのが分かる。
0.6μSv/hだった。

驚くことに、そんな場所でも、多くのトラックとすれ違う。
汚染された土を中間貯蔵所に運搬するトラックだ。1日に2000台近くが作業するという。

常に、2台体制で動き、作業員もトラック自体も線量チェックを受ける。
作業時間や通るルート(通学路を通らない)など、厳しく制限されている。

原発周辺に30年間貯蔵可能な中間貯蔵所が確保されているが、30年後の最終処分場はまだ決まっていない。

福島の事故は、チェルノブイリ原発事故に匹敵するものだったが、
チェルノブイリは、30キロ圏内の住民を全員退去させ、放置し、人の住めない場所になっているのに対し、
福島では、除染作業を根気強く継続し、元の生態系に戻すことを目的にしているという。

復興に向けてのこの様な並々ならぬ努力に驚くと同時に、
このツアーでは、原発事故の怖さも再確認させられた。

福島原発から14キロ地点にある牛肉酪農家の主人は、
事故後、政府から下りた牛の殺傷命令に逆らい避難区域に入り餌を与え続けた。

ミイラ化する牛がほとんどの中、彼の牛は生き残ったが、被爆による斑点が皮膚に現れている。

売り物にならない300頭の牛を生かし続けることで、原発反対を主張している姿は、
同じように生活を奪われた多くの福島の人々と重なって見え、原発に電力を頼ることの是非を考えさせられる。

今回のツアーでは、大きな希望も芽生えていた。

原発から10キロ地点の浪江町では、2年前に避難解除になった地区で、
温室栽培の花を育てるフラワー・プロジェクトが始まり大成功を収めている。

稲を育てる代わりに、トルコ桔梗を栽培したある農家は、市場で最高品質の評価を得た。次世代の産業として注目を浴びている。

さらに、他の場所でも、原子炉の廃炉作業のための遠隔操作用ロボットの開発が進められ、その技術の開発拠点が福島に設立されている。

田んぼにソーラーパネルが設置されているところもあり、将来の再生可能エネルギーの拠点になればと願わずにはいられない。

ちなみに、東京駅に戻った際に測った2日間の積載線量(0.005mSv)は
東京とニューヨーク間の飛行中に受ける線量(0.1mSv)より、はるかに少なかった。

このツアーに参加して、福島の沿岸は、かつて美しい自然と豊かな海の幸に恵まれ、
さらに、東京首都圏へのエネルギー供給を担う誇りある場所だったが、
そんな美しい故郷を失った多くの被災者の犠牲を忘れず、
その教訓を生かして、将来につながる本当の復興への道を模索するしかないのだと感じた。

外国人に英語で日本を案内する通訳案内士の仕事をしているが、
原発事故の恐ろしさと同時にその事故からいかに復興努力を地道に続けているかということも是非紹介したいと思っている。

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