私が見た福島沿岸部の今 Vol.10

福島の今

日頃外国人をガイドしていると”FUKUSHIMA”について尋ねられることがあります。
しかし、日本人でも福島県の浜通り(沿岸部)に足を運ばれている方は少ないのが実情です。
また、現地に訪れたとしても人の捉え方は様々です。

この度、ガイドとして活躍される方々に福島に足を運んでいただき、現地の様子をレポートいただきました。
複数の方の目線を知ることで、多面的に「FUKUSHIMAの今」を感じていただければと思います。

シリーズ第10回目の更新です。
(シリーズはこちらから)

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筆者紹介:

村田由紀子

看護師として国内外医療機関、外資系企業勤務を経て、現在は医療通訳士、全国通訳案内士として、世界から来日するお客様のガイドをしています。

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はじめに

2020年1月、東日本大震災から8年10ヶ月の歳月が流れた今、Japan Wonder Travelの、福島第1原発から半径20km沿岸部のツアーに参加した。実際に見聞して歩いて知り得た事実をもとに、以下の5つの観点から述べ伝えたい。

  1. 地理的位置関係
  2. 本当に放射能は危険なのか
  3. 帰宅困難地域の人々の思い
  4. 新しいまちづくり
  5. 次世代に残すこと

これを読んだ人が、「福島の風評を信じてしまう思い込み」があったのではないかと振り返る機会になれば光栄である。

1. 地理的位置関係

 1)福島県は日本で3番目に広大な土地を有する県である。福島県内は3つの地域に分けており呼称が異なる。山間部は「会津」、新幹線が通る地域は「中通り」、海岸沿いの「浜通り」と呼ばれる。
東京電力(以下TEPCO)は、福島県に2つの原子力発電所を建設した。東日本大震災で事故が社会問題となった原子力発電所は、2箇所ある。福島第1原発は北側、その12km南に第2原発が存在する。実際に地図で確認してみよう。

  • 福島第1原発:双葉町と大熊町にまたがっている。
  • 福島第2原発:富岡町と楢葉町にまたがっている。
Source: ふくしま復興ステーション(福島県)

2011年3月11日、原発事故が起こり、半径20km圏内が数年の帰宅困難地域となった。数年で一部地域に避難指示が解除された。

ここで各町の概要を整理する(北側から列記)。

  • 浪江町:駅周辺の中心部は原発から約10km圏内。2011年3月12日に避難指示が出て、帰宅困難地域になった。2017年に避難指示が解除されたものの、全体の10%程度しか人口が戻っていない。
  • 双葉町:2020年1月現在、全地域で避難指示が解除されていない。2020年3月に一部避難指示が解除される予定。
  • 大熊町:2019年に町の40%で避難指示が解除されたものの、震災前の4%しか戻ってきていない。
  • 富岡町:この町の北側8kmに福島第一原発、南4kmに第二原発がある。2017年4月、避難指示が解除されたものの、2020年1月現在、面積の約15%は帰宅困難地域が存在する。
  • 楢葉町:第一原発から20km圏内に位置する。2015年に避難指示が解除された。戻ってきた人、移住してきた人で、コミュニティが立ち上がっている。
  • 広野町:原発から30km圏内で避難指示が出されたが、2011年に解除。その後、原発作業員が多く住んでいる。

2015年、2017年に一部避難指示制限が解除されて帰還が可能となった。しかしながら、それぞれの思いがあるのが事実だ。町としての「復興」は徐々に進んではいるものの、「再生」というにはまだ早い。その理由を実際見てきたことを含めて報告する。

2. 本当に放射能は危険レベルなのか。

福島の風評被害は、放射能から根源ではないかと思う。富岡町に、東京電力廃炉資料館(TEPCO Decommissioning Archive Center)が存在する。TEPCOが情報提供をしている。東日本大震災の原発事故と、チェルノブイリの原発事故と背景が全く異なる。旧ソ連の地域であった国と、日本との国策も異なるため、同義と考えるべきではないことを理解する必要がある。また両者は除染方法が異なる。

福島第1と福島第2原発の比較で、福島第2原発が、危機的状況を回避できたポイントは3つ。

  1. 発電所外部からの交流電源が4回線中1回線は使用継続できたこと
  2. 原子炉内への注入手段を確保できたこと。
  3. 海水熱交換器建屋の復旧を短時間で完了することができたため、冷却機能が復旧し原子炉を安全な状態にできた。

TEPCOは、社会的責任として、「記憶と記録、反省と教訓」を示している。
各個人が正しい知識を持っておくことが大切であると感じた。出発したこの日、東京駅周辺で「放射能」を計測する機器(ガイガー・ミュラー計)で計測すると、0.14μSV(マイクロシーベルト)であった。つまり、東京に住む人々も極少量の放射能の暴露を受けていることを知っておきたい。

ツアー終了後、1泊2日の積算放射能は0.005mSVであった。この値は、東京—NYを飛行機で片道移動する放射能のレベルの20分の1というレベルだ。現在、原発区域で働く人々、除染区域に入る人々は前後で放射能レベルを測定し、業務中は適切な防護をし、適切に管理されている。

危険かどうかという観点から言うと、通常旅行で訪問する福島半径20km圏内にツアーに出ても放射能を被曝するかどうか、の値のリスクは、極めて低いといえよう。

3. 避難指示解除後の人々の思い

1)浪江町フラワープロジェクトで花の農家

福島第1原発から北側へ約5km、浪江町では、「浪江町フラワープロジェクト」で町の再生を目指している。「一輪を大輪に」と言うスローガンで、町おこしをしている。新たに花卉農家を始めた人々と面会した。元の海沿いの請戸地区で農業を営んでいたが、畑地を新たに開墾し、花卉農家を始めた。その1人である荒川氏より話を伺った。この町では、「トルコギキョウ」という花を育てたいという思いがあり頑張っている。土は放射能は除染されたものの、前の土壌に戻るまでには数年かかることを視野におき、まず土壌に馴染むことから始めている。

彼は、避難後、浪江町に戻りたいという思いから、同じ町に戻ってきて、新たな場所で、新たな仕事を始めた。その思いは相当の決断があったと思う。
震災当時、彼は地元の消防団の責任者として、避難に貢献した。津波で命を落とした人もいる。しかし浪江町が「みんなが戻ってきたいという町にしたい」という思いを語ってくれた。

トルコギキョウと荒川氏

2)牛を飼育している「希望の牧場」

震災後、逃げられなかった牛たちは、残っていた。当時、ここには330頭の肉牛がいた。放射能を浴びた牛たちは、もう食用としては出せない。そのような牛は売れない。それでも、生きている牛は、水くれ、えさを欲しがって泣いていた。
代表の吉沢氏に面会した。2011年5月、国は20km圏内にいる牛を「殺処分」にすることに決定。吉沢氏は殺処分には同意せず、浪江町の牧場に残って、今でも360頭の牛を育てている。売れない牛に、毎日、えさを与え続けている。牛たちは、放牧されて、広大な土地でパイナップルやバナナの皮、野菜を食べているので丸々していた。彼の活動が知れ渡って、えさを寄付してくれる人たちもいる。吉沢氏の力で、牛たちは生きている。ここは「希望の牧場」といい、本も出版されている。

吉沢氏の思いは、放射線に汚染された地域の風評被害で、本来とはかけ離れた イメージばかりが広がり、現実はどうなのだ、ということを伝えたい思いがある。信念を持って、東京や関東地域に出向いて、声を大にして、思いを伝える活動もしている。

3)帰りたくても帰れない住民

常磐線富岡駅は上野からの特急が停車する駅である。ここ富岡町で生まれ育った女性に面会した。かつての富岡町の駅の看板は奇跡的に残り、今もそこで会った人々と話すことがあるという。

富岡駅より北側、浪江町までは、現在も不通だが2030年3月に開通が予定されている。

JR不通区間

海沿いの地域には、防潮堤が建設中だ。その背部には福島第2原発の建屋が見える。

双葉町 防波堤からみた福島第2原発 

女性の話によると、自宅は、建物は、部分的に屋根が破壊して水漏れをして修復が必要であった。そのため、津波の損害保険は対象外、時計店を営んでいたが、避難指示が翌日出て、数日かと思っていたという。何年も帰れない日々が続いた地域で、今も自宅が残っている。

ここ富岡町は、津波の影響で家が全壊されているわけではない。原発事故が原因で避難指示が出て、2、3日で帰れるつもりが、6年、7年と年月が過ぎた。
彼女だけではなく、この町は長い期間帰宅ができなかった。帰宅許可が出ても住んでいない地域が存在している。
「グサグサっと1回で全壊してしまったという苦難」、という意味ではない、「何年にもわたりグサグサっとショックな出来事」を経験してきた。それはある意味、彼女のトラウマになっている。メインストリートと呼ばれた中央商店会はかつての商店街の活気はない。震災後、亡くなった持ち主の建物もあった。商品が並んだままの洋品店、空き家となった場所は建設会社等の事務所となっていた。唯一、オープンしているのは地元の開業医であった。日常生活動作が比較的自立している高齢者が戻っているという。老人介護を必要とする高齢者の施設は見つからない。「戻っていない」というより「戻れない」のだと感じる。

ここ富岡町はバドミントンが強い町として名高く、地元では「富岡魂」を掲げてきた。数々の大会で優勝し、東京五輪に出場が内定している桃田選手はこの富岡高校出身だ。

国道沿いには、K’sデンキが2011年3月12日にオープンする予定だったという。今は建物だけが残っている。

K’sデンキ

富岡町民の思いとして伝えられたことは、「帰りたいけど帰れない」実情があるということだった。県内、県外に避難した人々は、それぞれの生活がある。ある一定の期間、解体を申し込めば、自治体の費用で解体をしてもらえたという。しかし、話を聞いた女性の自宅は解体申込期間に申し込みをしていない。

かつての桜通りという富岡町の桜通りは、帰宅困難地域となってフェンスで覆われていた。避難指示解除が解除されたから、この町で暮らせるのだろうか、様々な不安が残る。現在、子ども人口は激減し、学校は1校のみで10数人の人数であるということであった。

富岡町の桜通り

4.新しい街づくり

楢葉町の動きを紹介する。楢葉町は2017年に避難指示が解除になった後、2018年夏、みんなの交流館「ならはCANvas」という交流館がグランドオープンした。コンセプトは4つあり、楢葉の住民の意見を聞いてコンセプトに沿った建設をしたという。

  1. 町内外、世代を超えて人が集い、出会い、交流する場である。
  2. まちの目印、復興の象徴となる場
  3. 楢葉らしさ、情報、震災の記憶を発信する場
  4. 1人でも誰とでもゆっくりと過ごせる場
すべて新しい ならはCANvas 内部

住民の意見を採用して、明るいガラス張りの建物であり、木のぬくもりを感じさせる、四方向に出入り口を設けた。壁には仕切りがなくオープンな場所である。入ると、フレキシブルに形を変えられるソファが並び、厨房のある調理が可能な場所がある。テラスでは野外コンサートもできるスペースがある。畳のスペースを設け、憩いや休憩ができる。2Fには、wifiを有するデスクスペースがあった。復興公営住宅が建ち、スーパーマーケットがある敷地に存在する。ここで働く人の中には、町内町外から移住してきた人もいた。
新しい感覚で、新たに、新生楢葉町は、まちづくりを行っている。

5.次世代に伝える遺産

請戸小学校(浪江町)

請戸小学校

この小学校の時計は15:38で止まっている。津波が襲ってきた時間である。2011年3月11日は卒業式の前日で2年生から6年生の児童が残って卒業式の準備をしていた。この学校の全生徒が無事であった。理由は、津波警報が出されて、最初は校庭に避難した。危険を察知した小学生の提案により、教頭が許可し、すぐに大平山という高台に逃げたからである。地震が発生後、約50分で全校生徒を避難させ、無事であったという話は後世に残していきたい教訓だ。

浪江町は、この小学校の建物は時計が止まったまま、当時の様子を伝えるという遺産として残す考えだ。周囲は復興公園になる準備を進めている。海沿いは前回より高い防潮堤の建設をしている。防潮堤からは約5km先の南岸沿いに福島第一原発が見える。ここで測定した放射能計は、0.08マイクロシーベルトであった。この値は東京駅の約半分の値である。

J-Village(楢葉町、広野町)

サッカー・ナショナルトレーニングセンターとして、国道6号園とJR常磐線に囲まれた丘陵地に建っている。1994年、TEPCOが福島県にサッカー・ナショナルトレーニングセンター(NTC)構想を提案したことから始まり、1997年にグランドオープンした。

 震災直後は、原発事故の収束作業の前線基地として使用され、震災直後の2ヶ月間で除染、サーベイ物流起点、バックオフィス、浄化槽などが整備された。2011年内には、約1600人分の単身寮、厚生施設として使用された。2017年、新生J-Villageの工事が進み、2018 年、人工芝の全天候型グラウンドを建設、2019年4月に新生J-Villageとしてグランドオープンした施設がある。

施設内部は、見るからに新しいものばかりで清潔感がある。新しい息吹は、2020年3月26日に、東京オリンピックの聖火リレーがここからスタートする。この聖火リレーを見た全世界の人々が、「福島」という土地の人々のパワーを感じてくれることを深く願う。

楢葉町のJ-Villageから東京オリンピックの聖火リレーがスタートする  

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