私が見た福島沿岸部の今 Vol.6

福島の今

日頃外国人をガイドしていると”FUKUSHIMA”について尋ねられることがあります。
しかし、日本人でも福島県の浜通り(沿岸部)に足を運ばれている方は少ないのが実情です。
また、現地に訪れたとしても人の捉え方は様々です。

この度、ガイドとして活躍される方々に福島に足を運んでいただき、現地の様子をレポートいただきました。
複数の方の目線を知ることで、多面的に「FUKUSHIMAの今」を感じていただければと思います。

シリーズ第6回目の更新です。
(シリーズはこちらから)

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筆者紹介:佐藤伸弘

2017年よりフリーの通訳ガイドとして活動。岩手県出身で、インバウンド推進を通して東北地方の活性化を推進したいと考えている。

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東日本大震災から8年半、多くの被災地では復旧・復興が進み、震災の痕跡も消えつつある中、その流れから取り残された地域のことがずっと気になっていました。東京電力福島第一原子力発電所周辺の福島沿岸部です。

通訳ガイドの仕事を通して、或いは岩手へ帰省する際に、岩手県や宮城県は震災後何度も訪問していましたが、福島沿岸部はこれまで訪れる機会がなかったのです。

そんな折、福島沿岸部視察ツアーのことを知り、8月27-28日に1泊2日のツアーに参加させていただきました。

ツアー参加の目的は、現在の福島沿岸部を自分の目で見て確かめ、復旧・復興のために何かできることはないかを考えるきっかけとすることでした。

以下、訪問した地域の現状と自分なりに感じたことを纏めてみましたので、福島沿岸部の今を理解する参考としていただければ幸いです。また、もし機会があれば、ご自身で現地を訪問してみることをお勧めします。

1日目の8月27日(火)は朝8時に東京駅を出発、富岡町と楢葉町を訪問し、楢葉町のホテルJヴィレッジに宿泊しました。

富岡町では、さくらモールとみおか(ショッピングモール)で昼食をとった後、廃炉資料館を見学し、町内の数か所を視察しました。

平日のお昼にも関わらずさくらモールは賑わっていましたが、お客さんは作業員と思しき人が中心でした。また、このショッピングモール以外に食事や買い物が出来そうな場所が見当たらなかったことを考えると、まだまだ本当の意味での復旧・復興が進んでいるとは言えないのかな、と思いました。

廃炉資料館はさくらモールの直ぐ近くにあり、東京電力の運営する施設ではありますが、原子力事故と廃炉事業の基本的な内容を理解するうえで、一見の価値がある場所と思います。

町内には、震災後に整備された団地もあり、復旧・復興の一端は見えますが、一方でゴーストタウン化した地域もあり、長期間避難を余儀なくされた地域の復旧の難しさを感じました。また、町内にはまだ立ち入りが制限された帰宅困難地域も残っており、原子力事故の怖さを改めて実感しました。

楢葉町では遠隔技術開発センターを見学しました。福島第一原子力発電所の廃止措置や災害対応等のための遠隔操作機器の開発・実証試験を行う施設です。様々な装置が装備されており、素晴らしい施設でしたが、万一の時にここまで対応しなければならない原子力発電を今でも再稼働させようとしている政府や電力会社に対して、疑問を感じざるを得ませんでした。

宿泊したホテルJヴィレッジは素晴らしい宿泊施設でした。サッカーやアメフトのチームが合宿していましたが、サッカー選手じゃなくても合宿してみたくなる充実した設備でした。

2日目の8月28日(水)は、Jヴィレッジ内を見学した後、大熊町の中間貯蔵情報センター、浪江町内、希望の牧場、請戸エリア、花卉農家を見学し、東京へ戻りました。

中間貯蔵情報センターでは、中間貯蔵施設工事の概要、工事の進捗状況、安全への取り組み等が解り易く紹介されていました。中間貯蔵施設に関しては理解できましたが、30年後に最終処分される施設の建設地が決まっていない現状については、憂慮すべき状況と思っています。

浪江の街は、一番衝撃を受けました。建物はそのまま残っているのですが、その多くに「こわす 解体」と記されたステッカーが貼られていました。震災前は約21,000人いた人口は現在約1,000人、4,200の家屋が解体される予定とのことです。原発の立地自治体でもない浪江町の現状を見て、大きなショックを受けました。

その後、殺処分予定の牛を引き取り、育てている「希望の牧場」を訪問し、原発事故時とその後の国、県の対応に関し、お話を伺いました。単純に賛成か反対かを決めるのは難しいのですが、原発事故関連の問題に関しては、少なくとも被災者の立場を十分理解した上で、誠意ある対応をするのが行政の取るべき道ではないかと思いました。

津波の被害を受けた請戸エリアは、遠くに福島第一原子力発電所を望む場所にありますが、高さが7メートルはあろうと思われる防潮堤が整備されていました。より高い防潮堤が必要、との考えは理解できますが、世界一の防潮堤と言われていた岩手県田老地区の高さ10メートルの防潮堤でさえ街を守れなかった現実を考えると、複雑な気持ちになりました。

浪江町の厳しい現実を見た後、最後に訪れた花卉農家で、希望の光を見たような気がします。放射線量や風評被害を考えると食する作物の生産・販売は難しいと判断し、花卉農家に転換したとのことでしたが、今では都内の大田市場でも高値で取引される花の栽培に成功したとのお話を伺い、与えられた環境の中でしたたかに、そしてしなやかに生きる地元農家の方に感銘を受けました

2日間のツアーで感じたことは、福島沿岸部の震災後はまだまだ継続している、ということです。今でも立ち入りが出来ない帰宅困難地域が残っていることを考えると、これからもこの地域の震災後は何年も(もしかしたら何十年も)続いていくことになると思います。

通訳ガイドとして、ボランティア活動で、ビジネスパートナーとして、今後何ができるのか、現地の人々に寄り添って、考えていきたいと思っています。 また、福島沿岸部と言っても町毎に、また同じ町内でも地域差があることを実感しました。津波の被害を受けた地域と受けなかった地域、原発事故の避難対象になった地域とならなかった地域、早期に避難指示が解除された地域といまだに帰宅困難地域が解除されていない地域、様々な差異があり、それによって置かれている立場も異なっています。現地の実情を正しく理解した上で、活動していきたいと思います。

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