私が見た福島沿岸部の今 Vol.2

福島の今

日頃外国人をガイドしていると”FUKUSHIMA”について尋ねられることがあります。
しかし、日本人でも福島県の浜通り(沿岸部)に足を運ばれている方は少ないのが実情です。
また、現地に訪れたとしても人の捉え方は様々です。

この度、ガイドとして活躍される方々に福島に足を運んでいただき、現地の様子をレポートいただきました。
複数の方の目線を知ることで、多面的に「FUKUSHIMAの今」を感じていただければと思います。

シリーズ第2回目の更新です。
(シリーズはこちらから)

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筆者紹介:川嵜磨理子

2015年、英語の通訳案内士として活動を始める。外国のお客様に日本を知っていただき、楽しんでいただくことが仕事兼趣味。守備範囲は広く、地域的には全国。範囲的には日本の宗教、文化、工芸美術を始め日本関することは全て知りたがりの伝えたがり。草月流生け花師範。

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あなたの心の中に少しでも、より安全で豊かで平和な世界を作りたいという気持ちがあり、
日本で少し特別の場所を訪ねてみたいと思うなら、このツアーはまさにあなたにぴったりのものです。

かくいう私も、心の片隅で常に現代の地球を取り巻く環境や事件に心を痛め、
何とかするすべはないものかと思いつつ、日々の生活に追われ無為に時間を過ごしてきた者です。

しかし、この度二日間の福島沿岸部ツアーの募集を知り、今こそ一歩踏み出して、
2011年3月11日以降ずっと私の心の中に澱みとしてある核の負の遺産‟FUKUSHIMA“をこの目で見に行く時だと思い立ち、ツアーに参加しました。

結果的に、実際に現地に足を踏み入れ、見て、聞いて、触れてみると、
自分が想像していたよりもずっと沢山のことを学び、感じ、考えることとなりました。

核に汚染されてしまった福島沿岸部が抱えるジレンマや悲しみ、また希望を皆さんと共有できればと思い、ツアーで感じたことを発信します。

2011年3月11日を境に日本人のみならず世界中の人々にとって‟FUKUSHIMA”は特別な意味を持つ場所となりました。

元来、福島(県)は13780㎢もの面積を持つ緑豊かな広い地域ですが、
しかし、‟FUKUSHIMA“はその中の沿岸部、東日本大震災による津波によって引き起こされた原発事故によって放射能汚染された地域を指し、
チェルノブイリと同様に、人類の核の負の遺産という意味合いを持つ言葉となりました。

その福島沿岸部の現状を探るため、
私たちはまだ暑さが残る9月初旬、ガイガーカウンターを片手に東京駅を発ち、
小型バスで一路北上し、福島県沿岸部を目指しました。

そして訪れた沿岸部の町々で、3.11後すっかり変わってしまった様子を目の当たりにし、
そこでもがき苦しむ人々の声を聴き、復興を遂げようとする‟FUKUSHIMA” の様々な施設を見学し、
未来に向けて懸命に生きようとする人々の未来を感じました。

次の項目ではそれらの場所での感想を、訪問順ではなく、
地震当時の時系列に従って1地震と津波、2原発事故、3復興、4警鐘、5未来をいう観点からお伝えしてみたいと思います。

1地震と津波

2011年3月11日の午後14時46分に起こった三陸沖の大地震は、
その後大津波となって東日本の沿岸部を襲い多くの犠牲者を出しました。
その爪痕を辿って私たちが訪れたのは浪江町の沿岸部請戸地区でした。

請戸地区は太平洋に面した漁港の町で津波の被害を大きく受けた地域です。
海に面した港町は大きな津波にすっぽり飲み込まれ、
今は唯一請戸小学校のみが何もない原っぱに時間が止まったように取り残されています。

この小学校は幸いにも冷静な判断のもと、
生徒、教員の全員が無事近くの大平山に逃れたことで知られています。
海岸線には新たな防波堤が築かれましたが、
その内側は未だにただの原っぱでかつての港の賑わいは見る影もありません。

東日本の三陸沖は太古の時代から何回も地震と津波に襲われてきた地域で、
日本がいかに地震国であるかということを、
また建築技術の発達した昨今にあっては、地震よりも恐れるべきは地震によって引き起こされる津波であることを、
まざまざと改めて思い知らされることになりました。

また、福島第一原発から6キロしか離れていないこの場所は、
防波堤の上からはるかに福島第一原発の煙突を望むことができます。

あの日津波に襲われた福島第一原発は核爆発を起こし建屋を破壊し、放射線を待機中に拡散させました。
あの日にたまたま吹いていた北西の風が放射線を大熊町、双葉町、浪江町の奥深くへと導き、
8年経った今も人々が故郷に帰還することができない地域となっています。

あの日北西の風が吹いていたということが浪江の運命だったという町の人の言葉が重く心にのしかかりました。

2福島第一原発事故

東日本大震災の中で最大の災害の一つといえるのが福島第一原発の水素爆発です。

なぜ、どのようにして水素爆発が1号基から4号基までにおいて起こってしまったのかを知るために、
私たちが訪ねたのは富岡町にある東京電力廃炉資料館です。

この資料館では原子力発電の基本情報を始め、
地震発生から津波、原子力事故の発生と対応を振り返ることができます。

日本は世界有数の地震国にも関わらず、原子力発電所を持ち、
防ぐことのできなかった事故を起こしてしまったという過程をしっかりと理解するということは、
私たちの未来を考えるためにも大変大切なことであると感じたと同時に、
この問題を解決するのは沢山な困難があり、長い年月と予算がいることなのだとため息が出るような思いでした。

この資料館を訪ねた後、
私たちは富岡町の地元の語り部の仲山弘子さんとお会いし、町内の案内を受けました。

真新しい復興住宅街を歩き、かつては目抜き通りであっただろう歯の抜けたような通りの前で、
地震や津波、また避難生活と帰還についてのお話をお聞きしました。

仲山さん自身、現在はいわき市の方にお住まいで、
富岡町のご実家は近いうちに壊すことになりそうだとのお話でした。

長引いた避難生活中のご自宅の損傷や空き巣のお話は、
避難勧告が解除された後も故郷が元の姿に戻ることの困難さを物語っていました。

3復興

東日本大震災の復興、その中でも特に厄介な福島第一原発廃炉に向けて取り組みを知るために訪れたのが
楢葉町ある遠隔技術開発センターです。

ここでは福島第一原発の水素爆発を起こした原子炉の廃炉に必要な技術を研究開発している施設です。

福島第一原発1号機から4号機付近は放射線濃度が大変高いため、
人海戦術を引くのが非常に難しい場所です。
そこで様々な技術を開発して廃炉に向けていくための研究がなされています。

私たちはシュミレーションによって実際に原子炉に入ったような経験をすることができました。
とても臨場感のあるスリリングなものでした。

原発事故の終息のために、できうる限りの知恵を絞り、莫大な予算をかけて研究がなされていました。
改めて、避けることのできなかった事故のために払うことになった莫大な代償について思い知らされました。

また私たちは復興のための除染で生まれた放射線で汚染されたごみを貯めておく中間貯蔵工事情報センターも見学しました。

楢葉町と大熊町にまたがる福島第一原発を取り囲む地域に汚染物質の中間貯蔵施設は設けられています。
汚染物質はこれから30年間ここで貯蔵され、最終処分場に運ばれることになっていますが、
まだそれがどこになるかは決められていません。

情報センターではここでどのようにして汚染物質が処理されて貯蔵されていくのかを
映像によって学ぶことができます。

核の負の遺産である汚染物質がしっかり管理され貯蔵されていくのを見るとともに、
この事故がかけがえのない自分たちの領土を取り返しのつかないほど汚してしまったのだと強く感じました。

4警鐘

3.11から8年がたった今現地を訪れてみると、
大変な困難を伴いながら復興がわずかずつながら進んでいることを実感します。

しかしながら、その陰にはたくさんの福島沿岸部の人々の苦労があり、涙があり、
それらの人々の思いは明るい未来に向いたものだけではありません。

今回の原発事故では人間ばかりでなく沢山の動物も犠牲になりました。

放射線に汚染された牛を見殺しにすることができずに、
自身が放射線を浴びながら、それらの牛の面倒を見続けている人がいます。
私たちはその方、沢正巳さんに会うために希望の牧場を訪ねました。

希望の牧場では殺処分されるはずだった被爆牛300頭が飼育されています。
吉沢さんはなぜこれらの被爆牛を飼育し続けるのかということを私たちに語ってくれました。

彼は被爆の象徴である牛たちを飼い続けることで、
原子力の時代である今の日本に警鐘を鳴らし続けているのです。

私たちが原子力依存の生活から脱却することがこれから日本のみならず、
世界を守ることになると訴え続けています。

吉沢さんの姿は前ばかりを向いて、
より安全な原子力を生み出していこうとしている姿勢とは明らかに異なるものです。

私たちがしっかり耳を傾けていかなければいけない意見の一つであると思います。

5未来

重い話題が多いツアーでしたが、旅の最後に私たちは甘い香りと鮮やかな色彩に囲まれました。

最後に私たちが訪れたのは、浪江町で花づくりを始めた農家さんでした。
浪江町では浪江フラワープロジェクトという取り組みが行われており、花で町を盛り上げていこうとしています。

今回は、二軒のトルコ桔梗農家を訪ねました。
温室に見事に咲いたトルコ桔梗は‟FUKUSHIMA”に射した一条の明るい未来のように感じられました。
農家さんたちの苦労が実り、浪江が花の町としてよみがえることを祈らずにはいられませんでした。

以上が2日にわたる福島沿岸部のツアー雑感ですが、
これを読んであなたもすぐに福島の現状を見に訪れたいと思われましたか?

ツアーは放射線被爆については何の心配もありません。

私たちが常に片手に持ったガイガーカウンターの指し示す数値も常に正常値の範囲内でした。

ツアー後あなたは絶対‟FUKUSHIMA”から何らかの強いメッセージを受け取ることになるはずです。
是非一度、ご自分の目で耳で福島沿岸部を感じてみてください。

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