私が見た福島沿岸部の今 Vol.9

福島の今

日頃外国人をガイドしていると”FUKUSHIMA”について尋ねられることがあります。
しかし、日本人でも福島県の浜通り(沿岸部)に足を運ばれている方は少ないのが実情です。
また、現地に訪れたとしても人の捉え方は様々です。

この度、ガイドとして活躍される方々に福島に足を運んでいただき、現地の様子をレポートいただきました。
複数の方の目線を知ることで、多面的に「FUKUSHIMAの今」を感じていただければと思います。

シリーズ第9回目の更新です。
(シリーズはこちらから)

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筆者紹介:

瀬口 加寿子(通訳案内士)

数年前、国際協力の仕事で福島の会津、中通りを訪れ震災の影響、コメや農作物の汚染と風評被害の実態を学び、今回浜通りの沿岸部の状況、避難解除による復興など地元の人々からの生の声で知りたいと思い参加した。ガイド中に震災、復興の現状を聞かれることもあり正しい知識でお伝えしたい。

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2日間の福島沿岸部ツアーは福島の原発の影響と地元の住民の心情、熱い思いを知る有意義な研修だった。2015年に福島大学を訪問し福島の地震、津波、原発の被災状況を学んだが実際浜通りを訪問する機会は今まではなくどの程度避難解除地域が回復しているのか、人々の生活の情報などはなかなか報道でも詳細には表れない。

今回浪江町の駅周辺、富岡町の中央商店街、楢葉町のコミュニティのコンパクトシティ、またそれぞれの住宅街、沿岸部をめぐり避難解除の時期が遅くなればなるほど人々の生活拠点は戻りにくく、帰宅を望んでいても子供の学校、仕事、世代の意見の違い、家の老朽化、生活環境など様々な問題が入り組んで被災者の心の傷がいえない実態が浮き彫りにされた。

原発被害で仕事や育てた牛を失い、生きた証として被ばく牛を育て続け原発反対を訴え活動される吉沢さん、避難解除後故郷に戻り、風評被害の恐れのある食べ物ではないトルコ桔梗など花き栽培を新規に手掛ける荒川さん。お二人とも浪江町を愛し、つらい経験をばねに安全で豊かになる町を求めて毎日精いっぱい生きておられると感じた。

荒川さんのトルコ桔梗

荒川さんの起こっていない先の悩みを考えるよりも問題は起こってから考えるといわれたことが印象的でそれぞれ希望に向けて一歩一歩進んでおられると思う。

廃炉資料館内の展示

廃炉資料館では地震から水素爆発までの経緯とTEPCOの対応及び第1、第2原発の廃炉の進捗状況がビデオと展示で説明されており、作業服や装備品、ロボットによる原子炉内の調査やデブリの取り出す様子など動画でも見ることができ興味のある人には十分時間が必要であろう。

また仮置き場で目にする黒いフレコンバックの山の行方が不明瞭であったが、中間貯蔵施設情報センターを訪問し、汚染土などのフレコンバックの移動、分別、焼却、灰の保管など動画や画像で説明され、第1原発の周りの広大な敷地の中央貯蔵施設の役割が理解できたとともに原発事故による被害の大きさ、30年後に残った放射能の保管物の行方が決まらない事実がもたらす不安など浜通りの復興の影を目の当たりにした。

J-Village

利用させてもらったJ-villiage ホテルは新しく快適な宿泊施設で植えなおした天然芝のピッチの青さが光に照らされとてもまぶしかった。震災後はこのピッチに砂利を引いて一面作業員の駐車場になり、建物内に疲れ果てた作業員が休む様子など写真で当時の様子がうかがい知れる。

現在は全天候用ピッチも建設され去年はWRCのあるアルゼンチン代表チーム、今年はサッカーナショナルチームや学生の合宿などスポーツを通じてますます人が集まり町も発展していくと思う。今年3月のオリンピック聖火リレーが待ち遠しい。

浜通りは帰還するには影の部分もあるが地元住民だけではなく県外からも福島を応援する人が集いつながりを広げ、雇用創出、つながりあるコミュニティ、豊かな産物で美しい福島を回復し発展する努力を通訳案内士として外国の人々に伝えていきたい。

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