シリーズでお伝えしてきた「福島沿岸部の今」。
10年目の3.11メモリアルデイに先立ち、2020年に福島沿岸部で起きていた現状をブログにして【2021年最新版】として3回に分けてお届けします。
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2021年3月11日、東日本大震災発災から10年目を迎える。あの日から時を経るごとに震災関連の報道は激減し、世の中は震災も原発事故もなかったことにしたいかのようだ。ただ昨年は、福島のニュースがメディアに多く取り上げられていた。そう、直前まで二転三転した挙げ句、3月26日に福島県からスタートするはずだった東京オリンピックの聖火リレー中止が決定するまでは。そして今、人々の関心は、新型コロナウィルス感染症のことで持ちきりだ。
世界中がウイルスという見えない敵と闘っているが、被災者の方々からは「ある日突然、平和な日常が奪われるのは災害も同じ。誰かの指示待ちになり、思考停止に陥ってはいけない」と警鐘を鳴らされることだろう。
筆者はJapan Wonder Travelが催行する「福島沿岸部被災地ツアー」のガイドとして、また通訳ガイド向け研修ツアーに帯同して、2019年からこれまでに数十回と福島沿岸地域(通称「浜通り」)を訪れてきた。ご案内するのは地域内の、北から浪江町・双葉町・大熊町・富岡町・楢葉町だ。
2020年3月以降、訪日外国人ゲストのツアーは全く催行できなかったが、日本人や在日外国人ゲストの案内または通訳ガイド向け研修のため、数回現地を訪れることができた。その際に見聞きしたこと等に基づき、このブログでは現地の最新情報を紹介したいと思う。
原発事故による避難指示と人々の運命
「福島沿岸部被災地ツアー」では、東京から車で常磐高速道を北上していく。沿岸部の被災地に入ると、あの日から放置されたまま荒れ果てた田畑や崩れかけた家屋が目に入ってくる。そして、今では随分数は減ったが、除染作業で発生した汚染土壌や枯れ葉などを詰め込んだ巨大な黒いフレコンバッグの山。一方、高速を降り、復旧復興工事の進む地域に入ると、わずか数週間後に訪れれば景色が一変してしまうところもある。そこにあった家屋が解体され、更地と化すのだ。また、荒涼とした景色の中に、忽然とモダンな建物が現れることもある。一口で被災地と言っても、被災状況や復興の進み方は様々だ。
なぜか。それはそのエリアが「帰還困難区域」にあるのか、避難指示解除が出され住民の帰還が可能」になったのか、そしてそれがいつだったのか、による違いが大きい。そして、住民の方々の運命もそれに大きく左右される。
福島第一原発から半径3km圏内の住民に避難指示が出されたのは、東日本大震災発災当日の3月11日午後9時過ぎだった。福島第一原発のホストタウンである大熊町と双葉町の一部住民に該当する。そして翌12日の早朝、10km圏内の住民に避難指示が発令された。同日午後3時36分、原子炉1号機で水素爆発が起こる。その後、20km圏内の住民にも避難指示が出された。
突然避難指示が発令され、原発で何が起こっているか詳しい情報も得られず、取るものも取りあえず自宅を後にした人々の中には、慣れない土地での数年の避難生活を経てようやくふるさとに帰れた人も、未だに避難生活を余儀なくされている人もいる。後者の数は現在でも約4万人にものぼり、そのうち70%以上は福島県外で暮らしている。
画像のグレーの部分は、未だに特別の許可がないと足を踏み入れることができない、将来にわたって居住を制限するとされてきた「帰還困難区域」を示している。オレンジの線枠内は国による除染が行われる「特別除染区域」だ。国によれば、そのうちグリーンの箇所の除染は2018年3月に終了したとされ、残された「帰還困難区域」の除染作業は未定だという。
除染作業の結果、沿岸部の地域には徐々に避難指示解除が出される。以下の画像は、各町の避難指示解除が出された日付と、居住者数を示したものだ。
避難指示解除が早ければ早いほど住民の居住率は高くなり、同時に「帰還困難区域」が残る自治体は低い。数字を見れば明らかだ。また、居住者の年齢構成をみると65歳以上の人が占める高齢化率の上昇が著しい。こうした状況では高齢者福祉のニーズが高まるが、人が増えない自治体では介護職員の確保が困難という現実がある。一方、若い世代にとっては、学校など子どもへの教育環境が整っていないことや放射線量への懸念も帰還へのブレーキとなっている。
さて、帰還困難区域内に一部ブルーの箇所があるが、これは「特定復興再生拠点区域」と呼ばれる。各市町村が復興・再生を推進する計画を作成し、国の認定を受け、区域内の帰還環境整備に向けた除染・インフラ整備等が集中的に行われる地域のことだが、帰還困難区域のわずか8%だ。
そして2020年3月、いくつかの「特定復興再生拠点区域」が脚光を浴びることになる。
常磐線全線再開
関東圏以外の人には馴染みがないかもしれないが、常磐線は品川(元々は上野)から仙台を結び、福島沿岸部の人々にとっては重要な路線だ。
その路線の一部区間が震災発災後から不通になっていたが、2020年3月14日、9年ぶりに全線が開通した。開通したのは、富岡駅から浪江駅までの5駅間である。
海に近い富岡駅は津波による壊滅的な被害を受けたが、元の場所の近くで建て直され、避難指示解除が出された2017年には品川駅まで繋がっていた。
しかし、夜ノ森駅(富岡町)、大野駅(大熊町)、双葉駅(双葉町)の3駅は帰還困難区域内にあった。だが、それぞれの駅周辺は「特定復興再生拠点区域」に指定され、優先的に除染作業が行われた結果、3月14日までに避難指示解除が出されたのである。ただし、今のところ自由に立ち入れるのは道路のみで、各3駅周辺に住民が居住できるようになるのは2022~23年だ。双葉駅周辺では除染作業や家屋の解体作業が始まったが、大野駅や夜ノ森駅の目の前には、バリケードで遮断された住宅が静かに立ち並んでいる。
それでも、沿線住民たちにとって、常磐線全線開通は大きな希望となったという。交通手段として鉄道があるかないかでは、心理的にかなり意識の違いがありそうだ。3月14日、各駅には大勢の住民が詰めかけ、再開を祝し乗客達に笑顔で手を振る姿がメディアに映し出されていた。
Jヴィレッジと聖火リレー
2020年3月26日、東京オリンピックの聖火リレーは、楢葉町のJヴィレッジから出発するはずだった。
Jヴィレッジは、1996年にオープンした日本初のサッカーのナショナル・トレーニング・センターだ。震災後は、東京電力福島復興本社が置かれ、福島第一原発収束作業の作業員の前線基地となっていた。ピッチには砂利が敷かれ、第一原発に通う作業員の車の駐車場と化し、消防車や自衛隊の戦車やヘリコプターも待機していた。2019年に全面再開し、施設内のホテルには一般の人も宿泊できる。
折しも3月26日その日、筆者は「福島沿岸部被災地ツアー」に帯同していた。聖火リレー通過地の厳重な交通規制のため、ツアー催行前は通常のコースでゲストを案内できるか不安に思っていたが、24日の夜突然、聖火リレーの中止が発表された。 そのため、式典会場のJヴィレッジに入ることができ、ツアー一行が到着した時は、会場の撤去作業が行われていた。いつもツアーでお世話になっている富岡町の語り部さんの一人が、ボランティアとして設営作業のお手伝いをすると仰っていた。そして偶然、撤去作業の現場で遭遇した。
Jヴィレッジを出発した聖火リレーは、被災地内のきれいに整備された駅前(Jヴィレッジ駅、双葉駅)、モダンな施設や道の駅、産業団地などを走行する予定だった。その中には2020年3月に一部避難指示解除が出された「特定復興再生拠点」が含まれる。被災地で日常的に目に入る除染廃棄物のフレコンバッグや、帰還困難区域を隔てるバリケードなどは、ルートからは見えてこない。オリンピック開催を歓迎する住民も多くいる一方、「聖火は福島のきれいな場所しか走らない」、「本当の姿が伝わらない」という不満をもらす住民もいると聞く。
今年、オリンピックが開催されれば、聖火リレーはJヴィレッジからスタートし、昨年計画されていたルートを走行する予定だ。東京都は、東京オリンピックの開催が、大震災から立ち直った日本の姿を世界へ示し、世界中から寄せられた友情や励ましへの返礼となるとしている。
「復興五輪」を掲げ、聖火リレーを通して、世界に伝えたい被災地の姿とは何か。被災者の気持ちを置き去りにしていないか、釈然としないのは筆者だけではないだろう。
コロナ禍の中でも、福島沿岸部では復興に向けて様々な努力が続けられている。
目の前に起こっていることだけに一喜一憂せず、未来への教訓として決して忘れてはいけない東日本大震災被災地の現状について、私たち一人一人が今一度しっかりと見つめ直すべきではないだろうか。時期が許せば、是非現地へも足を運び、ご自身の目で現状を見ていただければと思う。
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次回は、【2021年最新版②】、原発事故発災以降、被災地で唯一9年もの間全町避難が続き、2020年3月4日にようやく一部避難指示解除が出された双葉町の様子をお伝えする。
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