日頃外国人をガイドしていると”FUKUSHIMA”について尋ねられることがあります。
しかし、日本人でも福島県の浜通り(沿岸部)に足を運ばれている方は少ないのが実情です。
また、現地に訪れたとしても人の捉え方は様々です。
この度、ガイドとして活躍される方々に福島に足を運んでいただき、現地の様子をレポートいただきました。
複数の方の目線を知ることで、多面的に「FUKUSHIMAの今」を感じていただければと思います。
シリーズ第3回目の更新です。
(シリーズはこちらから)
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筆者紹介:出町(シュタイガー)知茶子
東京在住、全国通訳案内士(英語・独語)、2〜3週間のスルーツアーをメインに仕事をしてきたが、1〜2週間をメインに、短いものも増やしていく方向転換中。ドイツに留学したばかりの頃チェルノブイリ事故発生、食べ物の安全性に皆が敏感になったことをよく覚えている。
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英語とドイツ語の通訳案内士をしている。
インバウンドガイド業務の中で福島について尋ねられることは少なくない。
怖いもの見たさ聞きたさの質問もあれば、
歴史的に原発反対運動の強いドイツの旅行者からは日本のエネルギー政策についての突っ込んだ質問も出てくるため、
ただ報道されていることを反芻するだけでなく自身の立ち位置も自覚しなければ満足してもらえる受け答えができないと感じてきた。
8年経ち、福島が自分の中で風化しかけているとも感じる。
そんな中で自主研修として参加したのが2月の1日ツアーだったが、
今回(2019年8月27/28日)のガイド向け視察ツアーは、
初めて福島を自分と、自分の仕事と、結びつけて考えるきっかけとなった。
視察ツアーでは、
- 津波被害の記憶を残す場所
- 放射能に汚染された場所
- 復興あるいは新しい営みの場所
を巡り、語り部たちの話を聞き、東電や行政の取り組みを見た。
1日ツアー(2019年2月)や一泊2日ツアー(2019年8月)でカバーできるのはごく一部ながら、
現地でしか感じることのできない現在進行形の被災状況を垣間見られる貴重な体験となった。
インディアンは馬に乗って遠出をした先で、
身体よりもゆっくりとやってくる自分の魂をまずはじっと待つという。
子どもの頃聞いた話だが、
初めて身体と魂という二元性に気づき衝撃を受けたことを覚えている。
2011年3月11日・12日に避難せざるを得なかった福島第一原発(1F)近郊の人たちにとって、
魂は身体から引き剥がされたまま時が過ぎた。
街や道を寸断するバリケードは見えるけれど、
目に見えない呪詛が魂を「あの時」に引き留めたまま、
帰った・帰れた人も、帰らなかった・帰れなかった人も、8年後の今を生きている。
北海道・岩手県に次ぐ広さをもつ福島県は、
地理的歴史的文化圏として浜通り・中通り・山通り(会津とも呼ばれる)という3つの地域から成り、
今回視察するエリアは浜通りである。
県庁所在地(福島市)も商業の中心地(郡山市)も中通りにあり、
当然新幹線も中通りを南北に通って福島を首都圏と結ぶ。
この南北縦割り構造の中で産業基盤の弱い浜通りは発電所誘致に活路を求めてきた。
福島第一・第二(2F)の2原子力発電所計10基が止まった今も、
火力水力太陽光総動員で発電し主に首都圏に供給する自称「電源地域」である。
その浜通りを2011年3月に襲ったのはM9の地震(当該地域での震度は6~7)、
15~20メートル規模の津波、そして原発事故による放射能汚染の三重苦。
その中でも放射能汚染は時間軸が長く終わりが見えない、
直接的な被害(放射能)が見えない、
帰還可否や補償の有無などによるコミュニティの無数の亀裂が見えないことから得体の知れないバケモノのように忌み嫌われ、
風評被害やイジメや嫉妬となって人々を苦しめ続ける。
被災三県に送られてきた「頑張れ、東北!」「絆」「復興支援」などのスローガンが福島では虚ろに響く。
津波被害の記憶を残す場所
- 浪江町請戸(うけど)地区
- 漁港
- 請戸小学校
- 大平山
- 富岡町JR富岡駅周辺
浪江町請戸(うけど)地区:
震度6、津波の高さ15m、2キロほど内陸の大平山あたりまで流されたと思われる。
10kmほど南にある1Fが水蒸気爆発を起こす前の3月12日早朝に、
10km圏内まで拡大された避難指示の対象となった。
放射性物質がほぼ町の形をなぞるように広がったため、
逃げた先でも更なる避難を余儀なくされるといったことが重なった。
津波による犠牲者180余名に対し、震災関連死430名は避難生活の困難の反映か。
もとの住民21,000人中、2017年の一部避難指示解除後も1,000人が暮らすのみ。
- 漁港:高さ7mの防波堤が延々と海岸線に延びる。その内側は更地化され、
防災緑地が計画されているということだが、海辺なのに海の見えない土地となっている。
一画に「新・請戸漁港」が整備され操業再開。 - 請戸小学校:二階の窓に残る泥水の跡、3時48分で止まった時計が痛々しい。
現場の判断で高台に避難して全員無事。2019年2月に震災遺構としての保存が決まった。 - 大平山:犠牲者追悼の聖地となっている高台の墓地。
富岡町JR富岡駅周辺:
南側に隣接する楢葉町とともに2F立地自治体である富岡町は、
人口16,000人を擁しTEPCO関連雇用のおかげで高齢化率が19%と低い町だった。
2017年の避難指示解除後、1,000人が暮らす。
町営の災害公営住宅、県営の復興住宅が建設されているが未入居も多い。
1,400人いた児童生徒は現在20名ほど。
JR富岡駅周辺は更地化が進み、原発で働く作業員用アパートなどが立ち並ぶ。
放射能に汚染された場所
- 国道6号線 富岡ー浪江間 帰還困難区域内
- 大熊町
- 大熊町(新)役場周辺
- JR大野駅周辺
- 富岡町
- 夜ノ森駅周辺・桜並
- 浪江町
- JR浪江駅周辺
- 希望の牧場(M牧場)
国道6号線 富岡ー浪江間 帰還困難区域内:
復興作業と資材運搬の幹線道路となっているが、通行中窓開け禁止、駐停車禁止、二輪車通行禁止の異様な光景。
大熊町 :
北に隣接する双葉町とともに1F立地自治体。震度6の地震の後2㎢が津波に流された。
最も初期の3km圏内避難指示の対象だったため行方不明者の捜索ができず、心の傷を負った人が多い。
亡くなった140余名中128名が震災関連死。10,000の人口の96%が住んでいたJR大野駅エリアが帰還困難区域。
- 大熊町(新)役場周辺(避難指示解除準備区域、一部解除):解除後は面積の4割を占める地域に町役場が新設され、復興住宅50棟(未入居多)も整備された。TEPCO社員寮には解除前の2016年から500人近い作業員が単身寮に住み、一般者も使える大熊食堂が彼らの胃袋を満たす。1F内3カ所にある食堂に供給する給食センターもこの地域にある。
- JR大野駅周辺(帰還困難区域):不通となっている富岡ー浪江間の駅に大野駅と富岡町に属する夜ノ森駅とがある。2020年3月再開通予定。道路は35号線のみ窓を閉めた四輪車なら走行できるが、左右の枝道は農道に至るまで全て通行遮断のバリケード。町の中心地だった面影はなく、沿線の家々には蔦が覆ったり窓からすすきが覗くものが多く、野生動物は好き放題だろう。
富岡町:
- 夜ノ森駅周辺・桜並木(帰還困難区域):富岡町北部海外沿いの地域、大熊町に隣接する。同じ町内に解除区域があり、時に道路一本の右と左で住人/所有者の運命が別れたことを目の当たりにする。一軒の家を境界線が分断するような例もあるという。3,000本ともいわれるソメイヨシノがトンネルを作る並木がすばらしく、一昨年から桜祭りも再開され散り散りになった町民が多く束の間の再開を喜ぶ姿が毎年ニュース報道される。
浪江町:
- JR浪江駅周辺:前述のように原発立地自治体ではないのに放射能汚染に最も翻弄された町には、2017の一部解除後も5%ほどの住人しか戻らず、駅周辺の繁華街だったところも更地化が進んでいる。2019年度までの解体で家屋の固定資産税の免除措置が適用されるため。解体を待つ残り1,200(全4,200件中)の家屋には解体申請番号を書いた札がかけられている。浪江小学校の下駄箱には外履きのスニーカーが残されており、津波警報を聞いた親が急いで子どもを連れ帰ったのかと想像される。郵便局が営業しており復興のシンボルとなっている。ドローンによる郵便/物資配達テストもここで行われた。JRの開通でどこまで町が生き返るかは不透明。
- 希望の牧場(M牧場):原発被害の語り部としてツアー参加者に最も強い印象を与えるであろう反骨のカウボーイ吉澤まさみ氏の話を聞く。置き去りにされた黒毛和牛1,500頭の世話をするため避難指示に従わず、2012年の全家畜殺傷処分指示にも逆らって、決して売れることのない生き物たちの命をつなぐため各地の農家から食料を提供してもらい続ける(今回滞在中にも長野県からトラック一台分のキャベツが届いた)。牛舎に繋がれたまま餓死した牛や蛆虫に埋め尽くされる豚の写真がショッキング(要注意喚起?)。このような生死のドラマだけでも印象的だが、吉澤氏の語る不条理の数々が、復興のキレイゴト側面を鋭く突く。立地自治体でない浪江町には何の情報も届けられないまま避難に右往左往したこと、除染のできない山間部が多く、放射性物質が雨で農業用ダムに流れ込んで濃縮され、米作りを半永久的に不可能にしてしまったこと、請戸漁港を200億かけて整備したけれど汚染水放出で漁業も成り立たないこと、世話をする黒毛和牛に白斑点が出て農水省に調査を依頼したところ「放射能との因果関係についてはわからない」と沙汰無しで幕引きされたこと、環境省が全額負担して解体工事を進めた結果更地の町・不在地主の町を生んだだけであること…。事務所の壁には浪江町(帰還困難区域)と南相馬市の境界線が赤い線で示され牛たちの命の境界線=「非・避難」の根拠=を主張する。その横に吉澤氏の市長選候補ポスター。浪江を体現して怒りを行政と東電にぶつける吉澤氏を当の浪江住民は支持しなかった。これもまた浪江の、原発事故の不条理の一つかもしれない。
復興あるいは新しい営みの場所
- 浪江町
- まちなみマルシェ
- 浪江フラワープロジェクト
- 富岡町
- 富岡ワインぶどう倶楽部
- 施設
- 富岡町 廃炉資料館(TEPCO)
- 楢葉町 遠隔技術開発センター(国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構 JAEA[1])
- 大熊町 中間貯蔵工事情報センター(環境省)
浪江町
- まち・なみ・まるしぇ:飲食店4件と物産・土産店2件、コインランドリー/クリーニング、日用品店などが入る浪江町仮設商業施設、2016年「町民が集い、食事や買い物ができる場、復興のシンボル」として町役場敷地内にオープン。近くにはAeonも開店した。一泊ツアーの1日目に寄った富岡町のさくらモール同様、作業着姿の男性が圧倒的に多く、品揃えも惣菜やカップ麺、酒類などに力が入っている様子。
- 浪江フラワープロジェクト:嫌厭されがちな食品ではなく、口に入れないものを作る新しい産業を生み出そうと花卉栽培を始めた農家2件を訪ねた。東京を向いてビジネスをしてきたこの地方のインフラがここでは強みとなり、オムニバス方式で集荷・配送を請け負うサービスを利用している。始業一年目・二年目で東京の大田市場で高い評価を得るなど手応えを感じているとのこと。
富岡町
- 富岡ワイン葡萄栽培クラブ:地域おこしの一環としてワイン醸造用のブドウ栽培を試験的に行う任意団体。2016年から経産省の地域経済産業活性化対策費補助金(被災12市町村における地域のつながり支援事業)などを活用してブドウ栽培を学んできて、2019年には試験醸造を始める予定。
施設
- 富岡町 東電廃炉資料館(TEPCO):2018年11月開館。とんがり屋根が軽すぎる印象を与えるのは2FのPR施設として造られた建物をそのまま利用したから。事故の反省と教訓を伝えることを目的に、事故当時の東電の対応を再現したビデオ(英語版あり)を流したり、廃炉作業現場の様子を見られるコーナーなどもある。東電の社員が深々と頭を下げて謝る様子は見る人によっては異様に映る。現場で働く人たちについての質問には「6次7次と下請けさんがいらっしゃるので…」わからないとお茶を濁された。
- 楢葉町 遠隔技術開発センター(国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構、 JAEA):1Fから南へ20㎞の楢葉南工業団地にある巨大な施設。2013年第1回東電福島第一原子力発電所廃炉対策推進会議で建設が決定され、2016年より本格運用。管轄は文科省、資金は経産省。3年間で166件の利用があった。廃炉に限らず広く遠隔技術の開発を目的とする国内外メーカーや大学施設の試験が行われる試験棟(W80m x D60m x H40m)には水中、階段、空中と様々な環境でのロボット試験ができる設備がある。原子炉格納容器漏えい箇所補修技術開発のため円形の格納容器の45度分を再現したモデルが、2016-17年の実規模試験を終えて棟外に出され、解体を待っている。研究管理等ではVRによる格納容器への潜入を体験。実際には人の入れない高度汚染地域での様々なシミュレーションが可能ということだが、この最新のテクノロジーも40年50年というスパンの廃炉・廃止(decommissioning)プロセスにおいてはあっという間に古ぼけてしまうのだろうなと思った。高等専門学校生のロボコンの開催地でもある。
- 大熊町 中間貯蔵工事情報センター(環境省):被災地というとそこら中に黒いフレコンバッグが山積みされ風雨に晒されている印象だったが、その風景が変わってきている。大熊町・双葉町が30年という期間を区切って中間貯蔵施設設置を受け入れ、福島県内で発生した除染により取り除いた土壌や側溝の汚泥・草木・落ち葉などが2015年から次々と運び込まれているためだ。国道6号線の外側に当たる1F周辺南北7km、東西2kmほどの土地(16㎢=ほぼ渋谷区サイズ、うち70%は買い上げ or 30年間地上権取得済み)には毎日2,000台前後の10tトラック(緑のゼッケン装着)が入る。放射性物質搬送には保管容器(フレコンバッグなど)ごとのID管理、車両ごとの運行状況管理、規制速度遵守の徹底等、安全を期している。搬入物は分別され、可燃物は減容化の上鋼製の角形容器に封入・廃棄物貯蔵施設に貯蔵、土壌は二重の遮水シートを敷いた枡形の土地に敷き均して遮水シートと覆土をかけて貯蔵。10万Bq/kgを超える放射性セシウム濃度の焼却灰も受け入れるが全体の1,3%ほどで、92%は除去土壌。1Fで発生した廃棄物は受け入れない(浪江町産業廃棄物処理場へ)。会津など県内でも遠いところのからの搬入は終了している(輸送対象物量1,400万㎥のうち1割強)が、浜通り・中通りからはこれから。30年後に県外に設置される最終貯蔵施設に搬出する予定だが、受け入れ自治体はまだない。
おしまいに
ツアー参加者にはガイガーカウンターが配られ、
出発地東京駅の値と被災地のそれぞれの場所での値を比べつつ視察できた。
帰還困難区域近くで高い値が出ることもあったが概ね東京と変わらず、
世界標準の自然被曝(0,28μSv/h)と比べても問題ないということが確認できた。
一泊二日の行程のおかげで多くの場所に足を運び、人々の話を聞くことができた。
その中で、欠けているもの・あったらいいなと思えるものをあげる。
- お金の話:県外避難者帰還・生活再建支援補助金、県内避難者・帰還者心の復興事業補助金、などなどの名称で多くの支援プログラムがあり、それぞれに誰が受け取れて誰が受け取れないなどのドラマがあると思う。帰宅困難者が現金で家を買うといった報道、自主避難者は自己責任とされ何の救済もないという報道、被災者の中に勝ち組・負け組ができて共同体を引き裂くといった報道もある。より詳しい話・報道されない話が聞きたい。
- 健康の話:甲状腺異常の見つかった子どもが増えたが被曝との関連が否定されたという報道があった。子どもたちの健康管理はどうなっているのか。
- 作業員の話:下請けの下請けの下請け。。。という構造の中で斡旋業者ばかりが儲け、現場では他に行き所のない人たちが命を削って働いているという噂(?)。実際は? 外国人は?
宿題として持ち帰ったのは電力供給地としての福島と電力消費地としての東京の関係について。
吉澤氏の「福島の犠牲の上に東京の華やかさがあるんだ」ということばが
背中に突き刺さるのを感じながら希望の牧場を後にしたが、果たしてそうなのだろうか。
東京人のエゴイズムを極力抑えて考えても、
需要と供給という経済の法則によって成り立つ対等な関係だったのではないか、
そこに負い目を感じる必然性はあるのか、感じるとしたら誰に/何に対してなのか。
原発の安全神話を鵜呑みにしてきた全ての日本人が負の遺産を残される子どもたちにすまないと思う、それならばわかる。
でもそれだけではないことも確か。電力のフェアトレードはどんな形をしているのだろう。
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