日頃外国人をガイドしていると”FUKUSHIMA”について尋ねられることがあります。
しかし、日本人でも福島県の浜通り(沿岸部)に足を運ばれている方は少ないのが実情です。
また、現地に訪れたとしても人の捉え方は様々です。
この度、ガイドとして活躍される方々に福島に足を運んでいただき、現地の様子をレポートいただきました。
複数の方の目線を知ることで、多面的に「FUKUSHIMAの今」を感じていただければと思います。
シリーズ第7回目の更新です。
(シリーズはこちらから)
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筆者紹介:池上泰之
サラリーマン時代に、20年間の海外駐在を経験する。
外から見た日本の魅力を強く感じ、退職後2017年から英語通訳案内士の活動を始める。
アメリカのシニア層をターゲットにしたロングのスルーツアーを中心に、日本全国を駆け巡っている。 お客様には一生に一度かもしれない日本ツアーを存分に楽しんでいただきたいと思っております。
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初めて参加した昨年12月。
まず感じたのが“FUKUSHIMA”は終わっていない、ということであった。
福島出身の友達も多く、地酒が旨い福島の存在は私の中では大きいが、
震災から7年半が経ち、マスコミの露出もめっきり減り、
被災地域としての“FUKUSHIMA”の存在が薄れて来ていた。
ところがバスが福島に近づくにつれ、
“FUKUSHIMA”が現在のこととして展開されているのを目の当たりにする。
汚染土を運ぶおびただしい数のトラックや
放射能を通さないフレコンバッグに収納された汚染土が
いたるところに積まれている様子をあちこちで見ることになる。
除染作業は延々と続いていたのだ。
しかもそれがまだ30年以上続くと聞くと気が遠くなりそうだ。
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今回のツアーでは、その終わらない“FUKUSHIMA”にプラスして、
未来へ向けての試みも垣間見ることができた。
特に印象的だったのが花農家だ。
一昨年避難指示解除となった故郷の浪江町に戻り、
野菜を作ってみたが風評被害により売れず、
それならば、と“口には入らない”花を育て東京に出荷している。
ITを駆使したデータ農業も功を奏し、1年目なのに大成功している。
現実的なところに目を向けた強かな復興の様子は、
みなさんの目の輝きと相俟って、未来への期待を抱かせるものであった。
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もちろん地震当日の店や学校の様子がわかる浪江駅周辺、
津波の爪痕を目の当たりにする請戸地区の小学校、
小さな道一本隔てて帰宅困難地区と避難指示解除地区が隣り合わせる富岡町、
そして政府と闘いながら“汚染牛”を飼い続ける希望の牧場の吉沢氏、など
地震、津波、原発事故と次々に見舞われた災害の記憶を留めることも
重要であり、このツアーはその全体像を提供してくれる。
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廃炉に向けた国や東電の取り組みも印象に残った。
遠隔技術開発センターは実物大の原子炉模型で作業シミュレーションができる、
という巨大な施設である。
こういう災害が起こってしまったら、
それがどんな理由にせよ、
膨大なエネルギーとお金をかけて対処せざるを得ないのだ。
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1000年に一度と言われる東日本全域を襲った天災は
ここ福島では人災がプラスされ、
(人が作ったものが災害の原因となったという意味での人災)
途方もない状況が生み出されてしまった。
世界中のみなさんにその事実をその目で確かめてもらい、
その中で人間がどう未来へ向かっていくべきなのか、
一緒に考えてほしい、と心から思うツアーであった。
コメント
今年も、東北大震災で大きな被害を受けた宮城県の山元町のイチゴを送っていただいた。よくここまで復興したと毎年感動しながらいただいている。
あの大震災の直後、今と同じように、仕事が全くなくなったガイド仲間で蔵王や石巻をベースにして女川、雄勝へボランティアとして数回復興支援に出かけた。すっかり津波で洗い流された雄勝の村ではガラスの破片と瓦が無残に散っているがれきの間から、実印を見つけて喜ばれたこともあった。わたしたちが訪れたときは、青い海が目の前にキラキラと輝き、この美しい海が牙をむいて襲って来たことが信じられないくらい穏やかであった。しかし家を失った村の人々は茫然と海を見据えていた姿が忘れられない。早10年、あの雄勝の人たちは立ち直ってくれたかと今でも思いをはせている。
震災直後は福島に支援に行くことは許されなかった。その後、家を流された人たちとは違う形で自分の故郷から離れて暮らさねばならない人たちのつらい10年を知って、いつも福島のことが頭から離れない。ニュースで見ているだけでなく、福島の人々とも痛みを分かち合いたいと思っているとき、JWGがツアーを組んでおられることを知り、いつの日か、そこに加わりたいと願っている。