シリーズでお伝えしてきた「福島沿岸部の今」。
10年目の3.11メモリアルデイに先立ち、2020年に福島沿岸部で起きていた現状をブログにして【2021年最新版】として3回に分けてお届けします。
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2月13日深夜の福島県沖を震源とする地震により被災された皆さまに、心からお見舞い申しあげます。また、被災地の一日も早い復旧をお祈り申しあげます。
ここ数週間、テレビやネット上では「10年の節目」というタイトルで、東日本大震災の特集をよく目にする。先日、あるテレビ番組でインタビューに答えていた福島県沿岸地域の被災者の方の言葉が、心にぐさりと刺さった。
「10年の節目というけれど、自分たちには区切りなんてない。たまに思い出す人達のためでしょ。」
今回ご紹介する浪江町は、今も全面積の約80%もが「帰還困難区域」に指定されている。
浪江町の一部(約20%)に避難指示解除が出されたのは、2017年3月31日。
震災から6年後のことである。
震災前の人口は21,434人、2021年1月末現在の「居住者(元住民以外も含む)」はわずか1,579人だ。また、町役場による住民意向調査によれば、帰還したいと考えている人が約12%、帰還しないと決めている人が約50%、まだ判断がつかない人が約30%となっている。
避難指示が出されるまでの混乱
福島第一原発事故以前の防災指針では、原子力施設から半径8~10kmの範囲を「緊急時計画区域(EPZ)」としており、この区域が含まれる県と市町村には、地域防災計画に原子力災害対策を含めることと定められていた。
福島原発の EPZ に入っていた6町においては、浪江町には第一原発のホットラインが、広野町には第二原発のホットラインが、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町には両原発のホットラインが設置され、原発で事故などが起こった場合には連絡が行われることになっていた。
3月11日の段階で、双葉町と大熊町には第一原発から、富岡町と楢葉町には第二原発から東電職員が派遣され、それぞれの発電所と連絡をとって、町に対して原発事故に関する情報伝達や説明を行った。
しかしながら浪江町に関しては、第一原発のホットラインが機能せず、東電職員の派遣もなく、東電から町に対して原発事故の情報が直接伝えられることはなかった。
テレビは、6町すべてにおいて視聴することができた。そのため、浪江町はかろうじてテレビによって避難指示や屋内退避指示を知ったようだが、詳細な事故情報は全く伝わっていなかったようだ。
町役場は、10km圏内に避難指示が出た後に一度は住民を10km圏外に避難させた。
その後テレビで原発の状況が悪化していることを把握し、12日の昼ごろに独自の判断で20km圏外に住民を避難させることを決断した。 その後住民は避難先を転々とし、役場機能も1年半の間に4回も移動した。そして、全町避難はまる6年にもおよんだのだ。
続く建物の解体作業
弊社の「Fukushima Disaster Area Tour」の訪問先でもあるJR常磐線浪江駅周辺では、多くの建物の解体が進み、今ではすっかり更地だらけとなっている。この辺りは、第一原発から10km圏内に位置する。
2018年に本ツアーを開始して以来わずか2年余の間で、日に日に周辺の景色は変わり、今年3月5日浪江町を訪れた時には、それまでわずかに残っていた見慣れた建物の多くが姿を消していた。苦渋の決断で、建物を解体した持ち主は多いだろう。
そして、ツアーの度にその前を通っていた「浪江小学校」。
玄関の下駄箱に残る生徒達の外履きの靴が、避難時の切迫していた状況を物語っており、いつもツアー参加者の目を釘付けにしていた。
震災前、浪江町には6つの小学校と3つの中学校に約1,700人の生徒が通っていたが、今は、2018年に完成した「なみえ創成小学校・中学校」に通う約20名だけだ。児童・生徒が戻らないことから、昨年、7校を2021年4月に一斉に廃校し校舎を解体することが決まった。この学校も解体の対象になっている。
この先、浪江町に震災前のような人の生活は戻るのか、子供たちの姿は見られるのか、今では想像することは難しい。
国や県が主体となって進めている「福島イノベーションコースト構想」では、最新のテクノロジー産業の推進が行われ、前回ご紹介した双葉町同様、町内の産業団地には企業誘致が進んでいる。昨年3月には、世界最大級の水素製造装置である「福島水素エネルギー研究フィールド」がオープンし、脱炭素社会の救世主として注目を集めている。だが、そこには町の人の顔は見えてこない。
未来を見つめ前に進む人々
一方、浪江町を愛し、町の未来に向けて、様々な新しい取り組みに果敢にチャレンジしている顔の見える人たちもいる。今回は、筆者が出会ったお二人の方々をご紹介したい。
荒川勝己さん(花卉農家)
浪江町は震災後、原発事故の風評被害を受けにくい花卉(かき)を農業再生の一つに位置付けており、その栽培に再起を懸ける動きが活発化している。「浪江町フラワープロジェクト」はその大きな柱となっている。
震災前、荒川さんは海に近い請戸(うけど)地区で稲作と鉢植えの花栽培で生計を立てていたが、原発事故後、妻子とともに秋田県湯沢市に避難した。ホームセンターで接客の仕事に就き、毎朝慣れない雪かきをしてから、車で店舗に通勤していたそうだ(浪江町請戸地区は海に近く比較的温暖な気候で、冬でもあまり雪が降らない)。
津波で自宅だけでなく農地も失ったが、「いつか町に戻って農業をやる」という決意は固かった。2018年2月に浪江町に戻り、内陸部加倉地区の遊休農地にハウス3棟を新設し、トルコギキョウの栽培を始めた。 農園を訪問するといつも温かい笑顔で迎えてくださる荒川さんだが、被災者の救助活動ではとても辛い経験をされた方だ。
当時、荒川さんは浪江町の消防団に所属していた。2011年3月11日は夜遅くまで、津波に襲われた請戸地区で被害者の救助活動にあたっていた。町の災害対策本部は、津波の水が引かないなか、暗闇での作業は二次災害の危険があることから、捜査は翌朝7時から再開すると決定した。
その頃、「(浪江町に隣接する)双葉町の山の上にある諏訪神社に、浪江町と双葉町の人が50名ほど取り残されている」という情報が入った。荒川さんたち消防団員は神社に向かったが、津波の影響で海側からは入れず、山側からまわった。神社の石段は流され、人々は境内で焚き火をして暖をとっていたそうだ。
避難者が集まる役場に向かうバスの待機場所まで、避難者をおぶったり手を引いたりして、瓦礫が積み重なる場所を3回も往復したという。荒川さんたちがようやく役場に着いたのは、日をまたいだ午前3時過ぎだった。
午前5時過ぎ、「原発の状況がおかしいようだ」と役場内が騒がしくなり、テレビでは第一原発から10km圏内住民への避難指示が流れた。役場は原発から8kmの場所にあり、当時の町長は、消防団は捜索活動をやめて町民の避難誘導をするよう指示した。
着の身着のまま避難してきた住民たちの避難先は、原発から12km離れた町内の苅野小学校。
前日から何も食べていない人が大勢いた。
3月12日午後3時36分、1号機で水素爆発が起こった。
3時間後、原発から20km圏内の住民に避難指示が出され、町民は町内の津島地区に避難した(混乱の状況は前述の通りだ)。
14日、今度は3号機で水素爆発が起きた。
15日、福島県二本松市に移った。(浪江町役場の機能は、発災後1年半の間に4回も移動した)
原発から10km圏内に福島県警捜索隊が入れたのは、津波から1ヶ月も経った4月14日だった。原発事故がなければ、12日早朝から捜査の再開ができたはずで、助けられる命も多くあったに違いない。消防団の人たちは、無念の思いを抱き続けている。
消防団員として辛い体験をした荒川さんに、どうして浪江町に戻る決心をしたのかお尋ねした。
帰還された町民の多くは高齢層で、荒川さんの同世代や下の世代はあまりいない。町に帰還したものの、1週間もの間、誰とも話をしないこともあるそうだ。
それでも、「農業の緑がない所に人は戻ってこない。みんなが帰還したいと思える環境をつくる」と意欲を語る。
「花卉栽培を軌道に乗せ、成功させたい。そうすれば後進も続きやすくなるから」とも仰り、花で彩られた浪江の未来を夢見ている。
東京オリンピック・パラリンピックのメダリストに贈られる「ヴィクトリーブーケ」に使われる花に、福島のトルコギキョウも選ばれた。昨年荒川さんも出荷を目指し、「あれは自分がつくった花だ」と多くの人に見てもらいたいと仰っていた。
昨年8月にオープンした「道の駅なみえ」では、荒川さんはじめ浪江町の花卉農家さんが丹精込めて育てた花を購入することができる。訪れる機会があれば、是非手に取っていただきたい。
鈴木大介さん(鈴木酒造 社長、杜氏)
鈴木酒造は、江戸時代末期に請戸地区で創業した老舗の酒蔵だ。
「磐城壽(ことぶき)」で知られ、「日本一海に近い酒蔵」と言われていた。元は廻船問屋を営んでいたことから、海からほど近い蔵で漁師たちの祝い酒を造り、地元の人々から愛されていた。
酒造りに使用するお米は地域の農家さんと提携して一から作り、水は請戸の井戸水を使い、地元の物を使って作り続けてきたお酒だ。
しかし津波で酒蔵は全て流失、原発事故により家族で山形県米沢市に避難した。ある日、浪江の蔵の酵母が奇跡的に試験場に残っていたことが判明する。そこで鈴木さんは、地元浪江町の人たちのために、再起をかける決心をした。
日本中の休業蔵をまわり、探し当てたすべての条件を満たす場所が、山形県長井市の「東洋酒造」だった。土地、建物、酒造業の権利まで100%買い上げ、2011年11月から酒造りを再開した。
2015年にイギリスのウィリアム王子が来日した際、王子の強い希望により、東日本大震災の被災地への訪問が実現した。王子は福島県も訪れ、宿泊先の郡山市の温泉旅館の夕食会では、福島県産食材をつかった和食とともに「磐城壽」山廃純米大吟醸が供されたのだ!(あの「飛露喜」と並んで)
浪江町の「まちなみマルシェ」(2017年春にオープンした仮設商店街、2020年11月に終了)には、鈴木酒造のお酒がずらっと並ぶ店があった。ツアーの際には、いつもゲストに紹介していたものだ。今は、「道の駅なみえ」と双葉町の「産業交流センター」の売店でも購入できる。
そして今年3月20日、「道の駅なみえ」の敷地内に「地場産品販売施設」として鈴木酒造の酒蔵が整備される。道の駅に酒蔵が整備されるのは国内では珍しいという。
浪江町での酒造り再開は鈴木さんの悲願だった。
「震災で浪江を離れた多くの人をつなぐ、懐かしさを感じられる酒を造りたい」とする一方、「品評会で評価され、大都市圏で認知されるものを生み出したい。それが浪江の酒米生産者の活性化にもつながる」とも語っている。
おわりに
「ゴーストタウン」と表現されることの多い福島県沿岸地域の被災地。
確かに、10年前から時が止ったままの光景を目にしたら、その言葉が口を衝いて出てくるのは仕方ないかもしれない。けれども、ご紹介したお二人のように、ふるさとに戻り、もう一度自分たちの手で時計を前に進めようとしている人たちもいる。
また、「本当に魅力的な商品なら、『復興』に頼らなくても買っていただけるはず」と、浪江町で300年以上続く伝統工芸品・大堀相馬焼の窯元の若い後継者は言う。市場で真っ向勝負する気負いなのだ。ただ昔のふるさとを憧憬するのではなく、未来に向かって歩んでいる。
彼らや出会った町の人たちを思うと、筆者はゴーストタウンという言葉を使うことはできない。
3回シリーズでご紹介した「福島沿岸地域の今」。
一括りに「被災地」と称されることが多いが、それぞれの町にはそれぞれ違った状況があり、町民が抱える事情も人それぞれだ。
冒頭の被災者のお言葉、
「10年の節目というけれど、自分たちには区切りなんてない。たまに思い出す人達のためでしょ。」
福島沿岸地域のために、私たちが直接できることは少ないかもしれない。
地域に起こったこと、地域の人たちを決して忘れないこと。これはわずかながらも被災された方々の支えになる、筆者はそう思っている。
そしてこのブログをご覧になっていただいた皆様には、是非現地を訪れて、自身が見聞きしたこと・感じたことを周囲の人と共有していただきたいと思っている。
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