【2021年最新版②】福島沿岸部の今 Vol.18~双葉町の一部、初の避難解除~

福島の今vol18 福島の今

シリーズでお伝えしてきた「福島沿岸部の今」。
10年目の3.11メモリアルデイに先立ち、2020年に福島沿岸部で起きていた現状をブログにして【2021年最新版】として3回に分けてお届けします。

今までのシリーズ記事はこちらから。

2月13日深夜の福島県沖を震源とする地震により被災された皆さまに、心からお見舞い申しあげます。また、被災地の一日も早い復旧をお祈り申しあげます。

福島沿岸部で唯一、2020年3月まで全域が帰還困難区域に指定されていたのが双葉町だ。2021年2月現在、居住者の数はゼロである。

3月4日、一部地域に避難指示解除が出されたのは、震災からようやく9年経ってからだった。しかし、対象区域は全町のわずか4%でしかない。そのほとんどが海岸に近い中野地区だが、津波浸水地域のため、住民の居住は許可されていない。

そして一方、3月14日に全線再開した常磐線・双葉駅周辺の「特定復興再生拠点区域」内には、立ち入りこそできるが避難指示が継続している区域(立入規制緩和区域)がある。

3回シリーズ第2回目では、同じ双葉町にあるこれら2つの異なるエリアの現状を中心にご紹介したい。

津波被災地域「中野地区」で進む復興整備

伝承館と交流センター
東日本大震災・原子力災害伝承館と産業交流センター

現在、双葉町と隣接する浪江町の両町にまたがる海岸エリア(中野・両竹地区)では、国と福島県により、広さ約48haと広大な「復興祈念公園」の整備が進められている。

対象区域では、海岸防災林の緑地、震災遺構と周辺施設等と連携した整備が推進され、緑地等が防災・減災機能を果たすとともに、人々の憩いの場となっていくよう計画されている。震災前に約6.2mだった海岸堤防は、1m嵩上げした約7.2mで建設が進行中だ。区域内では整備が着々と進められ、大型ダンプが行き交い、工事現場では重機の作業が続く。工事の進捗に伴い、刻々と景色も変われば、訪れる度に通行可能な道路の経路も変わる。ツアーで案内する際は注意が必要だ。

この復興祈念公園に隣接する形で双葉町中野地区に建設されたのが、2020年秋にオープンした東日本大震災 原子力災害伝承館産業交流センターだ(実は東京オリンピックに合わせ、7月にオープン予定だった)。中野地区は、福島第一原発から4kmのところに位置する。伝承館は6つのエリアに分かれ、原発事故発生直後の様子を実写映像を投影したり、被災した実物資料を展示している。

復興祈念公園の整備が進むエリア
復興祈念公園の整備が進むエリア

また、中野地区は被災伝承・復興祈念ゾーンであるともに、新産業創出ゾーンとしても位置づけられている。双葉町は復興産業拠点として県内外の事業者を誘致しており、雇用を生み出すことが必要だという。主要幹線道路の国道6号線までは約1.5km、2020年3月に開通した常磐自動車道・双葉ICまでは約6㎞に位置し、物流面での利便性は高い。すでに、20社近い企業の誘致が決まっているとのことだ。

荒れ地や更地ばかりのエリアにぽつんと現れる、伝承館や産業交流センターのモダンな建物。今年1月に現地を訪れた時は、産業交流センターの向かいで新しいビジネスホテルの建設が着々と進んでいた。かつて田んぼが広がりのんびりした風景のあったこの地域では、土地の造成に始まり新しい建物が続々と造られていくのだろう。

双葉駅周辺地域 – 賑やかだった通りは今

2020年3月14日。9年ぶりの常磐線全線再開に伴い、双葉駅が再オープンした。冒頭でお伝えした通り、双葉駅周辺は立入規制緩和区域であり、実際に住民が住めるようになるのは2022年春以降の予定だ。真新しい駅舎の西側では、復興公営住宅建設の整備が進められている。

3月14日にオープンした双葉駅(左の三角屋根の建物は旧駅舎)
駅構内にある来訪者への注意事項

一方、駅の東側の震災前に賑わっていた商店街の通りは、今は往事の様子を見る影もなく、震災とその後の原発事故発災以降時が止まったかの光景は、見る者の言葉を失わせる。驚愕する外国人ゲストが口に出来たのは
————-
”time capsule”
”a snap shot of the time”
”time frozen”
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など、本当に短いフレーズだけだ。

駅構内にある来訪者への注意事項

区域内の建物の所有者は、その解体をするのか除染をして維持するのかの選択を迫られる。いずれの選択をしても、国がその費用を補助する。恐らく今後は解体工事が進み、更地が多くなることだろう。 そして、多くのゲストが持つ疑問は「何故このように廃墟のような町に戻ってきたい人がいるのか」。その答えのいくつかを、この後ご紹介したい。

 あちこちで家屋の解体工事が進む
上4枚:あの日からそのまま残された建物 下:あちこちで家屋の解体工事が進む

一方で、駅を出てすぐに正面に目に入ってくるのは、壁いっぱいに描かれた大きな顔と隣の“HERE WE GO”の文字。これらを描いたのは、東京のアートカンパニー「OVER ALLs」だ。12月に再訪した時には、もう1ヶ所壁画が増えていた。

最初に描かれたのは8月、駅前の「キッチンたかさき」と「JOE’SMAN」の跡地。
“HERE WE GO”-「ここ」には、かつて町の人々に愛されたお店が確かに存在していた、そして「ここ」から新たなスタートを切る、そんな思いを込めて描かれた。

震災後、JOE’S MAN店主の高崎さんは東京・三軒茶屋にJOE’S MAN2号を出店。OVER ALLsの代表が偶然訪れたことから、“FUTABA Art District”のプロジェクトが始まった。OVER ALLs代表の「日本でも“Art District(※)”を実現させたい」、JOE’SMAN店主の「双葉町をアートで再生させたい」の思いが重なり形となったものだ。

10月に完成した2作目のモデルは、震災前はいつも学生たちで賑わっていたファストフード店「ペンギン」の名物ママだ。現在、ペンギンは産業交流会館のフードコートに店を構える。

双葉駅に降りて、目の前に懐かしい人の顔が見える。町の姿は変わっても、人々の中には変わらない想いがある。そんなことを考えさせてくれる作品だ。 これからも双葉町が、地元の人との関係が感じられるアートで埋め尽くされることを楽しみにしたい。

※Art District:工場地帯や倉庫街のエリアを、アーティストに貸し出すことでフォトジェニックなスポットに変化させ、街の価値が上がった海外のエリア

さて、筆者に初めて双葉駅前を案内してくださったのは、2020年度復興庁の事業でご一緒している山根辰洋さんだ。
山根さんは東京出身で、2013年から震災後双葉町役場の「復興支援員」として広報部門を担当し、その後結婚して双葉町民となった。家族での双葉町帰還を見据えている。そして、観光を通じた地域再生をめざし、2019年11月に一般社団法人双葉郡地域観光研究協会(F-ATRAs)を設立した。

山根さんによれば、双葉町の人々にとって、土地とは人生そのものであり、土地を大切にし愛することは、自分自身のアイデンティティと言ってよいものだった。神社はその拠り所でもある。双葉町は小さい町ながら、集落ごとに歴史あるお祭りや慣習が多く残っている。山根さんの目標は、その地域愛を表現し価値づけしていくことで、震災・原子力災害の伝承に留まらない、地域全体の魅力を多くの人に知ってもらえる旅行商品を造成・販売すること。そして、国内外からの交流人口を増やして、復興の加速・地域再生の基礎を作っていくことだという。

 再建された相馬妙見初発神社
駅の近くにある、再建された相馬妙見初発神社

双葉町の居住者は現時点では0人だ。避難指示発令後、人々はまず避難所へ、そしてその後親戚等の住む地域やあるいは仮設住宅にと、家族と離れ各地を転々とした方も少なくない。

現在、山根さんは家族と共にいわき市勿来(なこそ)地区にある復興公営住宅に住んでいる。2018年2月に完成した全180戸の団地には、双葉町から避難した約100世帯が暮らす。団地内では双葉町の自治会があり、住民同士の交流が行われているという。双葉町の伝統行事「ダルマ市」は2019年、2020年とこの団地内で開催された。今年は中野地区の町産業交流センターで開かれ、10年ぶりに「町内」に帰ってきた。

団地内倉庫に保管される巨大ダルマ(右端が山根さん)
団地内倉庫に保管される巨大ダルマ(右端が山根さん)

中間貯蔵施設とふるさとへの帰還の想い

双葉町の町民が抱える難しい問題のひとつが、中間貯蔵施設の存在だ。福島第一原発を囲んで双葉町と大熊町にまたがり、渋谷区の面積と同じくらいの約16㎢と広大な敷地をもつ。

中間貯蔵施設とは、福島県内で発生した、除染で取り除いた土や放射性物質に汚染された廃棄物を、安全に集中的に管理・保管するための施設だ。2015年3月から貯蔵が開始され、2045年まで保管される。除染土は「福島県外の」最終処分場に送られることになっているが、場所も保管の方法も現時点では決まっていない。

中野地区にある「双葉町産業交流センター」の屋上からは、その施設の一部が見える。

産業交流センター屋上から見える中間貯蔵施設の一部

再び山根さんによれば、中間貯蔵施設の受け入れには多くの住民感情があったとのことだ。

中間貯蔵施設は公共事業として進められ、敷地となる区域内に住む方々が土地を貸したり、売却したりすることで整備が進んでいる。区域内にはとても古い家が多く、500年以上もの間、先祖代々で土地を受け継いでいる方もいるそうだ。その中には「自分の代で土地を手放すことは無念だ」、「私たちは帰るべきふるさとを失ってしまった」という言い方をされる方が少なくない。また、「『中間』と言っているが最終処分場とされてしまうのではないか」という不安の声もあり、受け入れには地元の方々の多くの苦渋の決断があったそうだ。

このように、双葉町の地域再生に関する課題は山積している。一度荒廃してしまった土地を再生することは容易ではなく、40年以上続くという廃炉作業、汚染された土壌の管理、原発で発生した処理水の処分方法に関する課題、この地域に残された負の遺産はとても多くあるのが現状だ。

山根さんはこうも話す。
「これらを地域の一部として捉え、どう共存していくのかが必要になっています。この課題は誰かが見届ける必要があると思っています。当事者がいなくなってしまうと風化し、形骸化していくと感じています。また、この地域はチャレンジなくしては維持できません。ここで生き、挑戦することは、新しい価値を作るチャンスであると考えています。双葉町のツアーも一つの挑戦です。ぜひ、たくさんの方に足を運んでもらい、ひいては一緒に地域づくりに参加してくれる人を増やしていきたいと思っています。」

双葉町には、間違いなく人の生活があり、歴史があり文化があった。
福島とよく比較される1986年のチェルノブイリ原発事故。チェルノブイリ原子力発電所に勤める人々のためにゼロから造られたプリチャピ市は、事故後2日間のあいだに住民全員が避難したため無人になり、現在もまちは廃墟となっている。

双葉町の全住民は、ある日突然強制的に町からの避難を強いられた。帰る家は残っているのに帰れない、その状況はまだ1年以上続く。避難地で暮らし、その土地での生活にもようやく慣れた双葉町民には、あの日から12年後の帰町はどのように思い描かれるのだろうか。

▼山根さんの造った双葉町のツアーはこちら。現在は主に山根さんがガイドを担当する。

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▼Japan Wonder Travelの福島被災地ツアー

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第3回目は、浪江町の今をお伝えする。
2017年3月31日浪江町の一部に避難指示解除が出されてから、今年で4年目を迎える。

【2021年最新版①】福島沿岸部の今 Vol.17~まぼろしの聖火リレー~
シリーズでお伝えしてきた「福島沿岸部の今」。 10年目の3.11メモリアルデイに先立ち、2020年に福島沿岸部で起きていた現状をブログにして【2021年最新版】として3回に分けてお届けします。

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